「こころの風景」全文

 

 思い出1 「新町川に永遠の平和を誓う」

 水の都・徳島市を代表するのが新町川であろう。眉山の緑とともに市の中心部をゆったりと流れるこの川の変わらぬ風情は徳島っ子の誇りでもある。近年は吉野川からの分水ポンプが作動して浄化が進み、子魚がスイスイと泳ぐ姿も見られる。
 県庁のあるかちどき橋から富田橋、両国橋、新町橋、春日橋、仁心橋と新町川にかかる橋には一つ一つに忘れがたい思い出がある。
 ことに仁心橋は私の生まれた土地の橋でもあり、とりわけ熱い思いがつのる。私は太平洋戦争も末期の昭和18年5月9日、この橋のたもとの西船場町5丁目5番地に生まれた。
 生後2日目に「新生児メレナ」という病気にかかり目から鼻から血を吹いたそうである。そんな私のために、毎日毎日、人力車で仁心橋を渡って往診に通ってくれたのが寺島本町西1丁目の古川穂束(ほつか)先生である。
 先生の必死の看病で一命をとりとめた私は生後10ヶ月目に今度は「腸閉そく」になった。父はすでに出征していた。オロオロする母を勇気づけたのは「大丈夫だよ」と語る古川先生の一言だったそうだ。またしても古川先生は人力車で仁心橋を通い続けてくださったという。
 1歳の誕生日までに二度まで生命を助けてくださった古川先生は私の恩人でもある。のちにこのことを徳島新聞の「私の風景」という随想に寄稿したところ、御子息の古川一郎先生から丁重なお便りをいただいた。「父のことを書いて下さってありがとうございました。今は亡き父の仏前に新聞の切り抜きを供えて報告しました。父も喜んでいることでしょう。私も父の遺志を継ぎ、小児科の医師として頑張ります」というものだった。その後、私の三男がサルモネラ菌による食中毒にかかった時、今度は御子息の古川先生に助けてもらった。我が家は親子二代、古川病院に生命を救われたわけである。
 ところでカキ船が並び藍倉が軒を並べていた平和でのどかな新町川界わいも昭和20年の徳島空襲で全くの焼け野原となってしまった。私が2歳のときである。
 母の背に負われ防空壕で一命をとりとめたものの、家も財産も全てが一夜にして灰になってしまった。帰る家もなく食べるもの、着るもの何もなかった。新町川には焼けただれた死体が折り重なるように浮かんでいたという。
 そんな悪夢を洗い流すかのように今日も新町川はゆったりと流れている。終戦後、バラック住宅の建ち並んでいた藍場浜界わいは、緑地公園となり、今は世界的に有名になった平和のシンボル・阿波踊りの舞台ともなっている。
 誰もがちょっと見落し勝ちなのだが、この公園の中央には、永遠の平和と刻まれた塔がそびえている。その塔の下に立つと戦争の悲惨さと残酷さを身をもって知った徳島市民の切なる声が聞こえてくるようである。
 古川先生が人力車で毎日毎日往診にかけつけてくださったあの仁心橋のたもとには平和と文化の殿堂として郷土文化会館が建設されている。橋の南詰、つまり私の出生地には、父からの御縁で越後屋さんのビルに私の事務所と居宅を間借りさせていただいている。まことに不思議な御縁である。
 過去から現在へ。そして未来へと、時は一瞬のためらいもなく確実に流れる。その歴史を川面に刻みつけながら新町川もひたすらにながれゆこう。私はこのふるさとの川が二度と血で染まることのないよう心から”永遠の平和”を誓いたい。

 

 思い出2 「眉山は心の座標軸」

 眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山  
   かけてこぐ舟 泊りしらずも(船王)
 万葉の昔から眉山は徳島の顔であった。春の桜、秋の紅葉も見事だが、私は清新の気みなぎる新緑がことのほか好きである。
 戦災で西船場の家を焼かれたときも、この眉山の山すそにあった防空壕で生命を助けてもらった。蔵本に疎開したあとも、眉山はすぐ目の前にあった。加茂名小学校、加茂名中学校の時代も、この山とともに私は育った。小学校や中学校の時代は昆虫採集や植物採集で駆け回った。今の西部公園のあたりから登り始め、頂上の五本松や一本松から熊笹をかき分け尾根伝いに茂助ケ原まで歩く。
 野うさぎが通るほどの小道を、気の合った友とともにワイワイいいながら歩いた。ウグイスの鳴き声が聞こえ、涼風が汗ばんだ膚に心地よかった。
 今、茂助ケ原にはテレビ塔が建ち、リフトまでできた。立派なドライブウェイも完成している。車で行けば20分もかからないほどだ。
 5時間も6時間も歩いて四苦八苦のうちにたどりついた茂助ケ原と、そこから眼下に広がる青い海を眺めた時の感動は、歳月を経てもなお胸中に脈うつ。
 徳工時代の思い出に眉山一周マラソンがある。徳島工業高校の校庭から出発し、佐古、大工町、二軒屋を通り城南高校の前から八万町、上八万町へと抜ける。鮎喰の堤防あたりにくると、どの顔も砂ぼこりで真っ黒だ。もう走れないと座り込む友が出るのもこの辺である。そんな友を最後についてきたトラックが荷台にかつぎあげてくれる。
 幸い、これにはお世話にならず、どうにか完走できた私だが、このときの自信は、その後の人生にとっても大きな力となったように思う。男も女も1人残らず全校生を参加させるというこのスパルタ教育は、現在では賛否両論だろうが、懐かしい思い出である。  高校卒業後、静岡、東京、名古屋、金沢と移り住み、15年ぶりにふるさとの土を踏んだ私を昔のままの姿で迎えてくれたのも、この眉山の緑であった。
 いつも視界の中に変わらざる物をもっているということは、何かしら安心するものだ。それは15年間の県外での生活では味わえなかった”ふるさとの味”でもあろうか。
 衆議院選挙に初出馬して以来、ほぼ20年間、県下を走り回り、歩き続けてきた私の頭の中には、徳島県の道路地図がそのまま刻印されている。その座標軸の原点はいうまでもなく眉山である。幸い眉山の頂上には、テレビ塔が建ち、夜間も煌々と灯りがきらめいている。
 どんな迷路に踏み込もうが、この灯りを発見すれば、自分のいる位置がわかる。私にとって眉山は、灯台でもある。県外での生活では、方向感覚はいつも右か左であった。例えば、「〇〇のガソリンスタンドを右に曲がって・・・」という風に。ところが徳島では、「〇〇を東へ、とか、西へ」という。眉山を原点とし、東西に走る吉野川を水平軸にした座標軸が県民の脳裏に焼きついているせいではないだろうか。少なくとも私自身はそう思っている。

 

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 思い出3 「野球に明け暮れた蔵本駅前広場

 JR・蔵本駅の駅前広場は、今は立派な駐車場に様変わりしたが、私の子供のころは、それはそれは広い格好の遊び場だった。中央に2つの樹木の植わった公園があり、周囲は広場だったと記憶している。その一番西の隅が、私達の“野球場 ”だった。野球といっても今のようにユニホームやグローブなどはそろえられない。バットとボールだけの至極簡単なもので、ボールはどこにでも売っているゴムマリだ。
 車もほとんど走らない時代だったから、ここの広場は私達の独占場だった。みんな学校から帰ると一目散に駆けつけた。野球は1チーム9人だから二チームつまり18人でするゲームなのだが、子供は創造力の天才だ。その日集まった人数が多ければ多いなりに、少なければ少ないなりに結構楽しんだ。多いときには内野も外野もゾロゾロ。どこへ打っても体に当たるほど。少ないときは、みんなで守りながら、一人ずつ抜けていっては打席に立った。勝敗とか技の巧拙などはもとから度外視である。野球をすること自体がともかく面白かった。春も夏も秋も冬も、ボールが見えなくなるまで徹底的に遊んだ。学校から帰っても学習塾やピアノや習字、そろばんの練習と子供のころからキリキリ舞いしている現代っ子から見れば、まことにのびやかで健康的な少年時代を送らせてもらったものだと思う。
 蔵本駅にはもう一つ思い出がある。毎年、夏になるとこの駅前広場に阿波踊りの桟敷ができたことだ。戦後の何もない時代に、この阿波踊りのにぎやかさは、子供心にも文句なしにうれしかった。タル木が組まれ、紅白の幕がはられた桟敷には、中央に“新町橋”まで作られていた。
 市内の中心部だけにマンモス桟敷ができる現在とは違って、泥くさいなかにも阿波踊り本来の庶民的な味わいのする蔵本駅前の桟敷だった。入場する連にはどの連にも暖かい拍手が送られた。熱演のどあいによってのど自慢よろしく、審査員がカネを鳴らすのだが、見物人はよく見ていて、カネの鳴り方が足らないと、もっとたたけとはやし立てた。
 2歳のとき蔵本に疎開して以来、16歳までの15年間を、私はこの土地で過ごした。私の第二の生まれ故郷である。今でも蔵本の町並みは全て頭の中に焼きついている。住んでおられる方々も、みなそれぞれに懐かしい。ことに昭和55年6月、初めて衆議院の選挙に出馬したときは、肉親をもしのぐ御心配をいただいた。選挙の結果がわかった日、私が真っ先に駆けつけたのもこの蔵本の町であった。目を真っ赤に泣きはらしながら、私の手を引き寄せるようにして握りしめてくださった人々の暖かい手のぬくもりを今も私ははっきりおぼえている。以来、選挙のたびにお世話になっている蔵本の皆様の御長寿と御多幸を私はいつも祈っている。   野球と阿波踊り・・・遠い少年の日の蔵本の思い出は、蔵本の人々の懐かしいお顔とともに私の心にきょうもまた暖かい春風を送ってくれる。

 

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 随筆4 「質実剛健の県工気風

 今はすっかり住宅地帯になったが、私達の学んだ時代の徳島県立徳島工業高校は閑静な田園のなかにあった。田宮街道沿いに重厚なたたずまいの木造校舎が建ち並び、裏側に広い広い運動場が高いポプラ並木の果てまでつづいていた。
 昭和34年4月から、37年3月までの3年間、私はここに学んだ。県工機械科といえば当時は城南高校と並ぶ狭き門だったように思う。50人の定員めざして県内外の中学校から優秀な人材が集まった。校内には寄宿舎があり、牟岐や伊島から来た友はここに寄宿して勉学に励んでいた。
 工業立国を国策として高度経済成長の道をひた走っていた時代だけに、中堅技術者の育成は時代の要請でもあったのだろう。機械科の卒業生には県外の一流大企業から求人が殺到した。卒業の半年も前に、1人残らず自分の望む大企業に就職が内定していた。それが県工機械科の魅力でもあった。
 私も、中学の進路指導の先生が城南高校から東京大学へのコースを強く勧めてくださったにもかかわらず、誰に相談することもなくあっさりと県工機械科を選んでいた。
 担任の中西芳男先生はじめ物理の中内理先生、数学の佐藤義照先生、金属の上崎孝一先生など優秀な先生方がいて、授業も結構面白かった。本来が楽天的な性格の故であろうか、私は受験勉強などというものは大嫌いで、いつも授業時間の中で全てを理解することに神経を集中させるタイプである。試験内容も、現在のようにクイズ番組を連想させるような暗記力をためすだけのものとは違って、理解力を問う論文形式のものが多かった。物を暗記することが嫌いで、特別な受験勉強など一日もしたことのない私が、どういうわけか入学の時も卒業の時も首席だったのはそのへんの事情によるものだろう。
 ともあれ、県工の校風というものは、一にも二にも質実剛健をもって範としていた。男女共学とはいうものの、生徒の大多数が男子であった。私達の機械科には、女性は一人もいなかった。実習の時間になると、各実習工場で油にまみれた作業服を着て、木型、鋳造、鍛造、溶接、手仕上、機械加工、原動機、材料試験などの技術習得に汗を流した。また、製図の時間には製図教室でカラス口をつかって図面を書いたりした。実習や製図は、こうした現場での作業を通して、実際に社会で働ける技術者を産み出していくために必要な精神の鍛錬が行われる場でもあった。
 教師への礼に始まり、礼に終わるという実習態度も剣道の試合を思わせる真剣さがうかがわれた。実習の先生方も真剣だった。現場では生半可な妥協は事故に結びつく。“頭で覚えるな、体で覚えるんだ ”と、土間のくぼみに薄氷が張る工場の中で、旋盤によるネジ切りの作業に一日中取り組んだ日もあった。
 そんな厳しさのなかで楽しい思い出は、弁論大会と運動会、そして修学旅行である。弁論大会には機械科を代表して現在、東京で活躍している石山康弘君とともに出場、1、2位を独占した。運動会では、競技部門でも応援合戦でも我々の機械科が圧倒的勝利を収めた。運動会のフィナーレを阿波踊りで飾ったのも我が機械科のアイデアであった。修学旅行は、東京・日光への旅。男と男の友情こもる思い出の残る旅でもあった。
 卒業してもう38年。我々の友情は年とともに深まっていく。有馬で名古屋で鳴門で、そして伊豆で同窓会を行ってきたが、懐かしさで一刻一刻を惜しむかのように夜を徹して語り合う友の姿は、あの修学旅行の延長のようだ。そろそろ、定年の話なども話題になり始めているが、いつまでもともに健康であることを祈り合っている。

 

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 随筆5 「計算尺と久保駿一郎先生

 県工といえば重量挙げにテニスと計算尺といわれた時代があった。いずれも全国優勝の経験がある。
 私は計算尺で2回、同級の河村晴美君、幸田賢一君、佐藤憲司君らとともに全国大会に出場した。計算尺は対数尺を用いて掛け算をたし算、割り算を引き算の形でできる便利なものである。乗除のほか三角関数、べき計算なども即座にできるのでかつては機械や建築、土木の設計に従事する者にとっては必携の小道具であった。そんなことから当時は商業高校のそろばんと同じく、全国の工業高校では計算技術の習得に力を入れており、クラブ活動の一環として計算尺クラブが設置されているところが多かった。
 県工の計算尺クラブを創設されたのが久保駿一郎先生である。当時は県工土木科の先生であり、私達には直接授業はされなかったものの、計算尺を通して、人生のあり方を教えていただいた点では、ひときわ心に残る先生である。
 1にも練習、2にも練習、3、4がなくて5にも練習というのが久保先生の実践教育であった。1年生の時クラブに入部して以来、1日2時間の練習が1日として欠けることなくめんめんと続いた。夏休みや冬休みも先生自ら休暇を返上して、毎日登校され、私達の練習に立ち合われた。
 その練習も毎日が本番さながら、全国大会と同じ形式である。先生自らがガリ版印刷された問題が皆んなの手元に配られると、ストップウォッチを持った先生が「ようい、はじめ!」「やめ!」と大きなドスのきいた声で合図される。  問題の配り方から間の取り方、さらには読み上げ算の読み方まで、何度か東京の全国大会に足を運ばれて研究されているだけに、私達は練習を繰り返しているうちに知らず知らず全国大会の雰囲気を体で覚えていた。今思えばそんな気持ちのする先生の練習方法であったように思う。
 人生と同じように計算尺にもスランプがある。ある程度、技術が上達してくるとそれ以上に伸びない。あせればあせるほど泥沼にのめり込んでいく。そんな時期が必ずあるものだ。そんなとき、その壁にどう対処していくかで人生の成否が決まるといってもよいだろう。  そんなとき久保先生はいつもいわれた。「おまえには、おまえでなければ出せない力があるんだ。それを信じろ。計算尺は技術じゃない。根性だ」と。スランプを破るのは練習に次ぐ練習以外にないというのが先生の信条でもあった。
 前途に立ちはだかる壁が厚ければ厚いほど、ともすればたじろぎがちなのが私達である。しかし壁が厚ければ厚いほど壁を突破した喜びは大きいこともまた真実だ。わが国に「点滴石を穿つ」、中国に「愚公山を移す」との例えもある。同じことの繰り返しのように思えるかもしれないが、同じことを繰り返すことほど強いものはない。人生の前途に立ちはだかる壮大な絶壁も挑戦の姿勢でぶつかり続けていくうち、ある日突然、崩れ落ち、新たな人生の沃野が眼前に広けゆく思いがするものだ。私はその後の人生でそんな経験を何度かした。そのたびに久保先生と計算尺の思い出を懐かしく思い出したものだ。
 全国大会には、私達は2回出場したものの、優勝は逸し、2回とも団体では2位、個人では3位に甘んじた。しかし1年後輩の須原英夫君が頑張ってくれ、私達が卒業した翌年、いよいよ母校が団体でも個人でも全国優勝に輝いたのであった。当時、浜松にいた私は一般の部で出場していたため、会場で久保先生と出会い、優勝の感激をともにさせていただいた。鬼の目に涙とでもいうのだろうか。練習につぐ練習で鬼のように思えたあのひげ面の久保先生も、この日ばかりは目がいかにも柔和でとめどもなく涙があふれていたことを昨日のように思い起こす。

 

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 随筆 「天際(そら)に流るる吉野川」

 全長194Km。四国山脈の山ふところに抱かれた高知県土佐郡本川村に流れを発し、徳島平野を東西に突っ走る吉野川は四国第一の大河である。
 人呼んで四国三郎。利根川の板東太郎、筑後川の筑紫次郎とともに日本を代表する三大河川の一つでもある。その水の清らかさと豊かさは徳島県人の誇りでもある。

  ♪千古の姿洋々と

   天際(そら)に流るる吉野川

   その雄大の精神(こころ)もて

   磨け我等の魂(たま)と技術(わざ)

   おお青春の意気ミ(たか)く

 わが母校(県立徳島工業高校)では校歌に、こう吉野川を歌っている。小学校から中学校そして高等学校の時代も吉野川は、私にとって身近な生活の舞台であり、その雄大な眺めは、少年の心に大きな希望の光を灯してくれたような気がする。
 小学校の時代はもっぱら堤防でのツクシとり。中学校から高校時代は、暇をみてはハゼ釣りに興じた。
 頭でっかち、どんぐり目のハゼは愛きょうのある魚である。七夕の笹竹に糸のテグス、鉛の代わりに小石を結びつけて、ゴミだめから掘り出してきたミミズをはりにくっつけただけの粗末この上ない魚具でも、面白いように釣れた。今のようにクーラーもビクもない。釣れた獲物は堤防にいくらでも生えている笹に通して帰る。
 どこまでも続く堤防を、大漁の凱歌をあげながら帰るとき、真っ赤な夕日が広い吉野川を朱に染めあげる。その雄大な景色といったらなかった。
 そんな子供のころの感動を再び味わったのは、中国大陸で夕日を見たときだった。昭和54年1月12日から、18日までの一週間、私は中日友好協会から招待され中国にいた。日中平和友好条約が締結されて3ヶ月、いよいよ日中両国の相互交流が始まろうとしている折り、日本の青年を代表して訪中したのであった。
 北京から石家荘に向かう車中で、その夕日は私の心を激しくとらえた。首都劇場で北京歌舞団の歌舞を観賞、中日友好協会を訪問、孫平化副会長と会談、北京大学訪問、頤和園、中日友好人民公社訪問、民族文化宮で中日友好協会趙僕初副会長の招宴、万里の長城、 定陵博物館見学、明の十三陵、革命記念館「周総理記念展」見学、故宮参観、共青団並びに中国青年代表との懇談会、人民大公堂にて全国人民代表大会常務委員会、譚震林副委員長と会見・・・と続いた北京での連日の殺人的スケジュールから解放されて、快適な軟座車(日本のグリーン車)のシートに身をうずめているとき、突然車窓に広がったのがあの雄大な景観だった。
 どこまでも続く地平線。今、まさに沈まんとする巨大な太陽。この二つのとり合わせはまさに大自然が織りなす劇的なドラマでもあった。その荘厳さと雄大さに私は息を飲む思いがした。
 古来、自然は人間の教師ともいわれる。ことに温暖なアジアモンスーン地域では、自然を友として、自然と巧みに調和しつつ農耕が行われ、文化、文明が発達してきた。それだけに人々が自然に対して抱く感情もまた暖かいものがある。それは”自然は絶えず人間に挑戦するもの。自然を征服してこそ人間の幸福がえられる”といった近代文明がともすれば陥りがちな自然観とは全く対極に位置する発想といってよいだろう。
 吉野川の夕陽が中国大陸の夕陽とオーバーラップしながら、話は人間と自然との関係をどう見るかといった形而上の問題にまで飛躍してしまった。私は、徳島の自然に抱かれながら育った人間の一人として、いつまでもふるさとの山河を愛し続けたい。文字では形容しがたい人間の境涯の広さと深さを、一幅の名画として直ちに見せてくれる吉野川の雄大さには、いつも心ひかれる私である。

 

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 随筆7 「ああ国鉄・鍛冶屋原線

 今はJRとなったが、昔の国鉄に鍛冶屋原線というのがあった。当時は板西駅といったが、今の板野駅を起点に、犬伏ー羅漢ー神宅ー鍛冶屋原といった駅々をつないで走るローカル線中のローカル線だった。むろん単線で、はじめのころはデゴイチが走った。あとになってディーゼル車がいつも一両か二両編成で、のこのこ走っていたように記憶している。
 阿讃山脈の山すそを広い桑畑を横切って走るそのひなびた味わいは、今も忘れられない。私は小学生や中学生の頃、毎年、夏休みになると鍛冶屋原のおばの家へ泊りがけで遊びに行ったものである。最初は父や母に連れられていったが、いつのまにか、1人で行くことが、私の夏休みの年中行事のようになっていた。
 蔵本から乗ると佐古で乗り換え、板西で乗り換える。2時間くらいかかったのであろうか。ちょっとした小旅行気分であった。高徳線から鍛冶屋原線に乗り換えると車内の雰囲気がガラリと変わる。不思議なもので乗っている人々の顔つきまで違う。どことなく人の良さそうなのんびりした顔なのである。いつも満員だったためしはなく、三々五々乗り込んできた人々は四六時中、にぎやかに語り合っている。大きな荷物を持ったおばさんが乗り込んでくると、誰ともなく手を貸してあげる。ここにいると全く知らぬ者同士でもすぐ友達になってしまう。そんな人なつっこさが鍛冶屋原線の車内にはあった。
 鍛冶屋原では、時には1ヶ月の夏休みのほとんどを過ごした。短いときでも1週間はいた。朝から晩までセミしぐれの中であった。オイチョウさんの下で1日中、真っ黒になって遊んだ。ツルベでくんだ井戸水のおいしかったことも忘れられない。
 当時は桑畑のなかに、クヌギの林がいたるところにあった。クヌギ林はセミとカブトムシの宝庫である。セミは魚をすくうタモ網さえもっていけば面白いほどとれた。クヌギの木の下のやわらかい土をほじくり返すと、カブトムシがウヨウヨいた。いついっても虫カゴがすぐ一杯になってしまう。徳島の市内ではとてもこんなことは考えられない。眉山だと1日歩いてもカブトムシ1匹も見つけられない。私は宝の山にいるような気分だった。
 あれは何という川だったのだろうか。鍛冶屋原ではおじさんに連れられて魚釣りに行くのも楽しみだった。あぜ道を自転車で走っていった。さほど大きくはない川だったが、フナやナマズが面白いほど釣れた。
 こんな懐かしい思い出ももう40数年前のことになってしまった。すでに鍛冶屋原線は廃止され、線路跡に立派な県道が走っている。このあたりも宅地造成が進み、クヌギ林はほとんどが切り倒されてしまった。今ではセミやカブトムシの数もめっきり減ってしまった。鍛冶屋原のおばさんは90歳を超えても元気で、子供のころ遊んでもらった話をすると、「そうやった、そうやった。」といかにも懐かしそうにうなずいたが、今は故人になってしまった。時代の進展とともに、形あるものは必ず変わりゆくが、「鍛冶屋原線」は少年の日のままの姿でいつまでも私の心に刻み込まれていることだろう。

 

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 随筆8 「陸の孤島・木屋平村に救援物資を運ぶ

 剣山の山ふところに抱かれた木屋平村を初めて訪れたのは、昭和51年10月。台風17号で穴吹川がはんらん、穴吹町古宮地区に大規模な土砂崩れがあった直後のことである。
 この台風17号は県下各地に大きな被害のツメ後を残した。私達は大型トラック10数台分の救援物資を県下各地の被災地に送り届ける大救援活動を実施し、私は陸の孤島となった木屋平村へ飛んだ。
 脇町の中学校のグラウンドからは、緊急出動していただいた自衛隊のヘリコプターで木屋平村の役場下の中学校グラウンドまで運んだ。救援物資は、米、ミソ、しょうゆ、ラーメンなどの食料から、毛布や衣類、タオル、トイレットペーパーなどの雑貨に、赤ちゃんのオシメや粉ミルクまで、大型トラツク二台分である。ヘリコプターでの輸送は20数往復に及んだ。
 眼下に山全体が崩れ落ちたかのような古宮地区を見おろしながら、ヘリコプターは山と山に囲まれたすりばちのような木屋平村に到着した。
 グラウンドには村の自家用車が出迎えに来てくれていた。早速、村役場へ。作業衣に身を固め目を真っ赤にして飛び出してきた人がいる。村長の藤田巌夫さんだ。「助かります。本当にありがとうございました」私の手を固く固く握りしめて喜ばれる村長の姿に、私は夜も眠れぬほど村民のことを心配し続けてきた責任者の心にふれる思いがした。
 またたくまに救援物資は役場の前に山のように積まれていった。「一軒一軒の御家庭にまで運ばれていくのは大変でしょうね。」と尋ねると、村長さんは「何をおっしゃいます。あとは私達でやります。きょうは遠いところを本当にありがとうございました。こんなときでございますから、お茶も出ませんが、お帰りになりましたら、皆様にくれぐれもよろしくお伝え下さい」とていねいな返事が返ってきた。帰途のヘリコプターから役場を眺めると、村長さんはいつまでも手を振り続けておられた。
 後日談だが、村長さんは役場の人達とともに重い救援物資をときには背中に背負いながら山道を一軒一軒配って歩かれたという。
 木屋平村へはその後何度もおじゃました。神山から川井峠を超えて入ると、左手に剣山が峰々を従えながら、くっきりとその雄姿を見せてくれる。標高1955メートル。四国山脈の背骨に位置する県下第一の高山ながら、その全容が車中から眺望できるのは、この国道第439号くらいなものだろう。晴れた日なら頂上の測候所まで判別できる。
 山の人々は純朴である。どこの家庭を訪問しても、「まあ、おつけなして」とお茶が入る。救援物資のこともきのうのことのように憶えておられて、台風17号のときの思い出話に花が咲く。窓辺に真っ赤に熟した柿。その向こうに、はるかかなたまで見はるかせる山々。時の過ぎゆくのも忘れ心と心の対話が続く。私はそんな木屋平村のゆったりした風景がこよなく好きだ。

 

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 随筆9 「山が動く!! 半田町大惣へ

 「山に亀裂が入っているんですよ」「杉の大木が根こそぎ倒れ ています」「山がゴォーッ、ゴォーッと動いているんです。この まま放っておいたらいつ大災害が起きるかわかりません」。── 公明党半田町議の林武次さんからそんな報告が県本部に入ったのは昭和57年7月のことだった。
 剣山山麓、とりわけその北斜面は、全国でも有数の地すべり地帯である。私はとっさにあの昭和51年の台風17号による穴吹町古宮地区の地すべりを思浮かべた。山がそのまま土石流となって谷を埋め、道路も民家も全てを一夜のうちに押し流してしまった。救護物質を運ぶヘリコプターから見たあの凄惨な光景を鮮やかに思い出していた。
 行動の人・林武次さんは、すでに地元住民1677人の署名を添えて、半田町長、並びに半田町議会議長に早急な対策を要請する請願書を提出したという。”よし、行こう ”私は即座に決意した。まず現場へ――これは十五年間の新聞記者生活で体に刻み込んだ私の体質でもある。中野明参議院議員にも連絡をとったところ「すぐ、行きましょう」と即座に返事が返ってきた。「調査なくして発言なし」これは公明党議員の鉄則だが、東京の国会議員が電話一本で飛 んでくる。── そんな公明党の気軽さと責任の強さが私は好きだ。
 7月3日、中野明参議院議員を団長とする公明党の調査団が早速、現場へ飛んだ。団員は私と、県議会議員の国久嘉計氏、それに地元の林武次町議だ。車の運転をかって出てくださったのは林議員の同僚で無所属の岡田清町議。若いが、地元の発展を思う情熱の人であった。
 町役場で内藤町長の出迎えを受けたあと、1677人の請願者代表でもある吉田光行氏の案内で山道を登る。「本当に国会議員の先生がわざわざ来てくださったのですね。本当に。こんな山奥まで。わたしゃあ、それだけで満足です」中野参議院議員に何度も何度も御礼を述べる吉田さんはいかにもうれしそうだった。鎌尾谷の上流では約1キロメートルにわたって亀裂の入った個所を視察した。亀裂の中に、持っていたツエを入れるとズズズーッと全部入ってしまう。その不気味さといったらなかった。ここで同行のテレビカメラマンと新聞記者に別れを告げ、私達はさらに山奥へ。かつては祖谷に通ずる街道だったというが、これが道と呼べるだろうか。いたるところ落石に削り取られ、夏草がおい茂っている。先頭の岡田議員が腰に差していた山刀を引き抜き、木や草をなぎ倒して進む。そのあとを私達が四つん這いになって登っていくのである。登り始めてもう2時間が過ぎている。全身汗びっしょり。それでも誰も引き返そうとはしない。私達に同行された脇町土木事務所や半田町役場の職員の皆さんも、汗をふきふきついてこられる。
  「あった。ここです」難行苦行の末、たどり着いた頂上付近の現場(東祖谷山村との境界付近)では約1Kmにわたって1mから5mの段差がついていた。まさに山全体がずり落ちているのである。緑の山膚が無残に削り取られ、赤茶けた土砂が露出している段差を見ていると、今にも立っている足場はおろか山全部がずり落ちていくのではないかという恐怖にかられた。  こうした実情調査をもとに、私達は、7月6日、県庁に三木申三知事を訪ね(1)大惣地区の地すべり危険区域について、県は正確な調査を行い、国に対して指定地域の拡大を早急に要請すること(2)抜本的な地すべり防止策を確立し、予算化を促進すること(3)台風、集中豪雨などに対する地元の避難体制を確立すること、の3点を特に申し入れ、1日も早く地元住民の不安を解消するよう要望した。
 台風がくるたびに私はヒャーッとする。大惣地区の住民の皆さんのご心配はいかばかりであろうかと。「避難場所までどうして行くか。それが問題なのです。危ないときは、安全そうなところにテントを張って身を縮めている以外にありません」そう語っていた吉田光行さんのことを私は忘れられない。

 

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 随筆10 「祖谷の山にうれしい“オシメ ”とこいのぼり

 “阿波路はすべて山の中であった ”──この20年間、徳島県をすみからすみまで歩き続けてきた私の実感である。
 東京の友人などは「四国は島国だから、どこからでも海が見えるでしょう」などというが、四国島に住んでいる私達から見れば「四国は山また山の大陸ですよ」といいたくなる。
 西へ行っても南へ行っても山は深い。ことに県西の三好・美馬両郡は“こんな山奥にまで家があるんですか ”と叫びたくなるほどの高地に住居が点在している。夜など家々の灯が星と見間違えるほどである。
 なかでも東西の祖谷山村は、まさに現代の秘境と呼ばれるにふさわしいひなびたたたずまいである。この両村には、もう数十回、足を運んだろうか。車も通らぬ道をかき分けかき分け歩き続け、懐かしい人々と再会できる喜びは、たとえようもないほどうれしい。
 祖谷の人々の最大の悩みは過疎化の波がここ40年来、急速に進んでいることである。村長さんの話ではこの40年間に人口が半分以下になったという。人口の減少に伴い、歳入はガタ減りした。町財政は青息吐息だ。そんな苦しい財政の中から山村開発のための道路を作っても、道が完成されたときには、その道を引越し道具を満載したトラックがおりてくる。そんな笑い話にもならないような悪循環が繰り返されている。道はできた。家もある。がすでに住む人はいないといった厳しい現実を私も何度か目にしてきた。
 過疎の最大の原因は、若い人たちの働ける職場がないことだ。近代の日本は工業立国を国策として高度経済成長の道を突っ走り続けてきた。その結果、海に面した大都市中心に人と物と金が集まった。労働力の供給地とされた農山村から若い人達の姿が消えてしまったのである。  関西の徳島県人会は、すでに100万人を数えるという話を聞いたことがある。徳島県の人口は83万人。話半分としても驚くべき数字である。徳島県下に若い人達が安心して働ける職場を作る。これは緊急を要する課題である。為政者は最大の努力を払うべきであろう。
 過疎と老齢化が進む風景の中で、心なごむものがあった。それは、農家の軒先で赤ちゃんのオシメが満艦飾に干された風景に出会ったときであった。町の中ならごく普通の風景だったが、山また山を踏み越えてたどり着いた農家の軒先でこんな風景に出会うと涙が出るほどうれしかった。ことに永い冬が終わり、新緑が目にしみる頃に訪れると、こいのぼりとオシメが一緒になって5月の風にそよそよと泳いでいた。まるで“わが家には息子がいて嫁がいて、孫までいるんですよ ”といわんばかりに・・・。そんなおじいちゃん、おばあちゃんのうれしそうな笑顔が思わず心に飛び込んできたのであった。
 船場に生まれ、蔵本に育った私は山の生活の体験がない。だから山の生活というと、反射的に小学校の頃、学校の先生が教えてくれたことを思い出す。「真ん中にいろりがあって、ナベがかかっています。おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんもお母さんもそして子供達も、みんないろりばたに集まります。おばあちゃんがナベから、雑炊を1人1人によそってあげます。熱い熱い雑炊をフーフー吹きながら、みんなで1日の出来事をなごやかに語り合います。こうして山里の秋の夜は更けていくのです。」
 そんな風景はもう遠い昔の話になってしまった。しかし、せめて親子孫の三代の人々が生まれた土地で安心して生活できるように、山林を振興させていくことは、現代日本の直面している大きな課題であることは確かだ。

 

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 随筆11 「秘境に都会育ちの花嫁さん」

 西祖谷山村尾井ノ内。海抜700メートル。大歩危から祖谷に入るかつての有料道路のトンネルの上にある。今でこそきれいな道路が抜けたが、数年前までは、ウサギ道と呼ばれるほど曲がりくねった小道を上り下りしなければならなかった。
 村役場に勤める古井孝司さんの家はここにあった。私も何度か宿泊させていただいたが、もう20年ほど前のことになるだろうか、最初に泊めていただいた時はびっくりした。
 「まあ一風呂浴びてゆっくりしてください」といわれるままに立ち上がると、玄関に、長靴と懐中電灯それにツエまでそろえてある。「いやあ、うちの風呂は遠いんでね。案内します」と懐中電灯を照らしつつ、真っ暗な山道を降りていく。ツエと長靴は途中でマムシが出るための用心だそうだ。
 10メートルほど降りた谷沿いのところにめざす風呂があった。なかに入ってまたびっくり。見事な五右衛門風呂だが、下司板がない。「そこに下駄があるでしょう。それを履いて入ってください。それから、家に帰るまでに冷えたらいけませんから、十分にぬくもってきてくださいよ」呵々大笑される古井さんに、私も腹を決めて風呂桶に飛び込んだ。
 その湯の熱いこと。下駄をはいて風呂に入るのは生まれて初めての経験だが、まさに石川五右衛門同様、カマゆでにされる心境だった。「体がぬくもったところでまあ一杯」古井さんは接客上手だ。「うちは天然の冷蔵庫でね」と庭に放り出してあったビールを無造作に開ける。その冷たいこと。ノドにしみるあのうまさは忘れられない。
 いつのまにか奥さんの順子さんが、祖谷の名物でもある固いトウフで湯ドウフを作ってきてくれた。それをいただきながら話がはずむ。その話がまた感動的だった。
 2人が知り合ったのは、古井さんが20。順子さんが19のとき。舞台は大阪。結婚しようということになったおりもおり、古井さんの母が突然、病気になってしまった。農業を手伝わなければならない長男である。祖谷に帰らねばならぬことになった。
 古井さんは考えに考えた末、順子さんにこういった。「ワシはおまえが好きや。けど、大阪育ちのおまえに、とても祖谷での生活はでけん。ワシのことは忘れて、大阪でいい人見つけるんや。幸せにならなあかんで。」  男の純情というのだろうか。祖谷に帰ってしまった、そんな古井さんのことが順子さんにはとても忘れられない。ボストンバック一つ持って後を追ってきた。両親には勘当されたという。
 それから30数年が過ぎ、2人の間に生まれた3人のかわいい子供も、今は立派な成人となっている。順子さんもすっかり土地の人達に馴れ、地域の人や親せき中の人達から、「順子さん、順子さん」と何でも相談されるようになった。これには大阪の両親もすっかり感心し、今では祖谷に行ったことを心から喜んでいるという。
 ともかく女性はたくましい。都会で育った順子さんが、祖谷の山里をわがふるさととして活躍されている姿を見ると思わず心がはずむのである。
 上板町の山間部でも東京は日本橋で育ったという花嫁さんが、酪農に若い情熱を注いでおられる姿を見たことがあった。
 青い空がある。青い海がある。緑の大地がある。空気もうまい。この徳島を第二のふるさととして活躍される若い花嫁さんに心から拍手を送りたい。

 

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 随筆12 「鳴門の海に描く徳島の未来図」

 阿波と淡路の はざまの海は    
 これぞ名に負う 鳴門の潮路    
 八重の潮時  かちどきあげて

 小学校の唱歌にも歌われ続けてきた鳴門海峡には今、全長1629メートルの大鳴門橋がかかっている。淡路島の向こうには、全長3910メートル世界一のつり橋である明石海峡大橋も完成し、神戸と鳴門は高速道路で直結。バスで1時間半という時代になった。
 私が鳴門の海を初めて見たのは小学生のときだった。当時は小鳴門橋もなく、土佐泊まで連絡船で渡り、歩いて千畳敷まで行ったことを記憶している。千畳敷から、眺観する鳴門の海は、かの吉川英治が「鳴門秘帖」で書いているように、感動的であった。
 淡路の山々が目の前に見え、ひとまたぎできそうな狭い海峡には、潮流が渦を巻いていた。真っ青な海と白い潮流、そして緑の松が日の光に映えてひときわ美しかった。
 四国は四方を海に囲まれた島国である。しかもその中央部には高い山々が峰を連ねており、本土の人々からは“四国の山ざる”と呼ばれたこともあった。時には島国根性などといわれる。ともすれば狭い視野でものを見がちな県民性は、こうした環境によるところが大きいのであろう。
 本土と四国を結ぶ掛け橋は、神戸ー鳴門ルートに加え、児島と坂出を結ぶ瀬戸大橋、そして尾道と今治を結ぶ「しまなみ海道」の三架橋が全て開通した。私は幸せにも三架橋全ての開通式に出席しテープカットさせていただいた。支持者の皆様に心から感謝せずにはおられない。
 陸続きになるということは確かに便利なことである。天候に関係なくいつでも自由に往来できる。四国の私達にとってそれは大変にうれしいことだが、本土からも容赦なく人と物と金が入ってくるということでもある。良いものもくるが悪いものだってくる。公害や大気汚染をはじめ教育の荒廃や人間不信、そして広域な犯罪などが直接間接に、このふるさとの緑の大地をおおっていくかも知れないのだ。
 考えなければならないことは、東京や大阪と同じようになることが、四国のそして徳島の未来像ではないことである。むしろ、東京や大阪などの大都市が引き返そうにも引き返すことのできない「真っ白いキャンバス」を、わが四国なかんずく徳島県は持っていることに強い強い自信を持つことだ。
 その「白いキャンバス」にどんな未来像を描いていくか。それが私達の仕事である。その第一の視点は、世界の中で日本は何をなしうるか、日本の中で徳島は何をなしうるか、といった問題意識を持つことである。
 私は教育であると思う。“教育立県・徳島 ”これが私の夢見る徳島の未来構想だ。四国三架橋時代は大交流、大競争時代の幕開けでもある。日本の全国から優秀な学生が四国へ、そして徳島へと学問にくる。そんな郷土を築きたいと願う。
 かつて「田舎の学問より、京の昼寝」といった人がいた。今は時代が違う。情報化が進み、世界のニュースがどこにいても一瞬のうちに伝わってくる。そして、どこにいても世界に発信できるインターネットの時代なのである。そんな時代に、政治も経済も文化も教育も全てが超過密の大都市に集中しなくてもよいはずだ。都市の機能を分化し、現実の問題は都市で消化するとしても未来を見すえた人材の育成は、青い空と緑の大地に恵まれた地方で担ってもよいのではないだろうか。
 わが徳島がその先べんをつけたいものだ。──鳴門の海を眺めな がら、そんなことを考えてみた。

 

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 随筆13 「懐かしき藍水苑の出会い」

  ここに一枚の写真がある。昭和53年8月13日、加茂名中学校の同窓生が卒業20周年を記念して集まった写真である。場所は徳島市名東町の藍水苑。眉山の緑をバックに懐かしい顔が並んでいる。 私達の時代の加茂名は小学校と中学校が同一学区という事情もあって、同級生の全員が小学校以来、9年間、どこかで同じクラスとなっている。そんなわけでクラス別の同窓会というものはない。300人足らずの卒業生は互いによく顔を知り合っている関係から、同窓会には1組から6組まで全員が昭和33年度卒業生という形でつどい合うことにしている。
 ところで卒業して20年も経つと一人一人の消息は容易につかめるものではない。ことに姓の変わっている女性の場合はなおさらである。一人一人の消息をつかみ、案内状を出す労作業を自ら買って出てくださったのが岡山清治君、竹内孝夫君、遠藤高士君、西卓男君、吉田勝一君、川先専一君、藤田祥君、喜多正昭君、鈴江一輝君、大久保英明君、見須(旧姓・斎藤)潔君、佐藤英一君、松原(旧姓・浅野)京子さん、山田(旧姓・坂田)敦子さん、淡井(旧姓・武市)昭子さん、細井(旧姓・図子)寿美恵さん、中窪〔旧姓・中野)真弓さん、久積キヌエさん、小川洋子さん、藤田(旧姓・菊川)洋子さん、藤原(旧姓・西森)美恵子さん、塩本(旧姓・乾)千鶴さん、日下善江さんら、こよなく加茂名を愛する人達であった。
 この方々の1年にも及ぶ汗と涙の結晶で、卒業生の6割の消息が判明。当日は4人の恩師もご招待し56人が集ったのである。遠く東京から駆けつけた浜田耕作君(今は徳島で活躍している)をはじめ、香川や愛媛県からも懐かしい友が馳せ参じた。
 同窓生とはうれしいものである。会った瞬間、誰もが20年も前の中学生に帰ってしまう。「お前」「俺」で話が通じ合う。裸になって話し合える。20年間の空白を一度に埋めるかのように私達は話すことに熱中した。少年時代の共通の思い出を持つ者の話がこんなにも楽しいものであることを知ったのは、15年間も故郷を離れていた私にとってうれしい再発見だった。
 その後も同窓会は岡山清治君、藤田祥君、鈴江一輝君らのお世話で、小規模ながら、継続して開かれている。私もできるだけ都合をつけて参加させていただいている。この同窓会に必ず出席してくださるのが森宮九十男先生と岸田義市先生であった。両先生とものちに母校の校長をつとめられ、人望の厚い方々だったが、岸田先生は残念ながら逝去された。私の衆議院選挙初出馬のとき、テレビで応援の弁をふるっていただいたことをはっきりと思い出す。心から御冥福を祈りたい。
 加茂名中学校の時代。私は生徒会長を務めていたが、立候補の挨拶に各教室を回ったり、全校生の前で立会演説を行ったことなど懐かしい選挙の思い出もある。それとともに生徒会の最終議題にはいつも、校舎内外の清掃問題をとりあげ、生徒会終了後役員が率先して全校の掃除を引き受けたことなども思い出す。
 陸軍の練兵場を仮整備して作られた運動場や校舎だけに、運動場からは、ときたま不発弾が発見されるなど、ぶっそうきわまりなかった。それでも、自分達の学校は自分達の力で、整備していこうという意識が誰の心にもあったのだろう。「役員全員で掃除しよう」という生徒会長のツルの一声に、異論を唱える役員は一人もいなかった。
 現在は校舎も運動場も全てが面目を一新している。私達の卒業式の日に完成した体育館も老朽化が進み、数年前に新築された。学校の隣にある蔵本公園や西部公園では、今年も私達が中学生のころと同じように桜が満開に咲き競った。卒業してもう四十年。同窓の友の髪にも白いものが見立ち始めたが、この桜のように、いついつまでも青年の気概を持ち続け、はつらつたる人生を歩まれんことを祈りたい。

 

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 随筆14 「よく遊びよく学んだ加茂名小時代」

 流れも清き袋井の
 ほとりにたてる 学び舎に
 育つわれらは そのかみの
 いさおしたてし 人のあと
 今もたたえて もろともに 
 学びの道を 進まなん

 今も歌い継がれているわが母校・加茂名小学校の校歌である。校舎と運動場の間を流れる袋井用水は、泉が枯れ、下水のようになってしまったが、私達のころは、校歌のとおり青々とした水が豊かに流れていた。夏でも冷たいほどで、運動のあとなど水に飛び込むと震えあがってしまうほどだった。
 私の小学校入学は昭和25年4月。桜の花が咲き乱れる校門を母に連れられて入った。入学した日「自分の名前がかけますか」といわれ、カタカナで「エンドウ カズヨシ」と書いたら、先生に笑われた記憶がある。おじいちゃん子だった私はおじいちゃんの教える通り、覚え込んでいたらしい。
 1年生から4年生までは、遊んでばかりいた。勉強が面白くなったのは5年生になってからだ。5年生の担任は森岡進先生。今は定年退職し、子供達に書道を教えておられるが、当時は教師になったばかりで私達の心の中にグイグイ飛び込んでこられる情熱と行動の人だった。
 授業のときも掃除のときも、これでもかこれでもかといわんばかりに自ら率先垂範される。その迫力が魅力でもあった。いつのまにかクラス全体が先生を父とした一つの家族のようになり、特に男の子は、先生の宿直の日が楽しみで、よく宿直室までおしかけていったものである。「家には言ってきたか」というので「ハイ」というと「よし、今日は徹夜でシゴイたる」と宿直室がにわかじたての教室となった。
 勉強にあきてきたなと思うと「よっしゃ。相撲するか」である。先生にみんなでよってたかってぶっ倒すと「負けたわ」と大きな体でしりもちをつく。ある日、しりもちをついたのが、障子の上で、障子がこなごなに壊れてしまったことがある。泣きベソをかく私達に「心配すな。あとは先生に任しとけ。君らはもう寝ろ」とさっさとフトンの中に押し込むのであった。次の日、起きてみると、障子はものの見事に修繕されていた。こなごなに折れたサンを一つ一つていねいに糸でくくりつけ、どこで手に入れたのか障子紙まできれいに張ってあった。  「先生いつなおしたんで」と聞くと「おかげで朝までかかったわ」と真っ赤な目をしている。私達が眠ってしまったあと、一人黙々と修繕されたのだろう。強い責任感と意外な器用さには脱帽するばかりだった。
 六年生の担任は小林ミユキ先生。すでに定年退職され、悠悠自適の生活を送っておられるが、字の美しい本の好きな先生であった。卒業のとき、私が全校生を代表して答辞を読むことになったときなど、何度も我が家まで来て一緒に文案を推敲してくれたことを懐かしく思い出す。
 同級生には東大を卒業して東京・丸の内の中小企業金融公庫に勤めていた福家隆晴君など優秀な人材がたくさんいた。福家君とはよく東京で食事をしたり、毎年、手づくりの年賀状をいただいてきたが、残念ながら数年前に逝去された。私も弔問に伺ったが、御両親の深い悲しみに胸がしめつけられた。
 当時の小学校は遊ぶことにも徹底したが、学ぶことにも徹底していた。私なども小学生時代に世界少年少女文学全集はじめ夏目漱石の全集などを読破した記憶がある。
 今でも「我輩は猫である」や「坊ちゃん」「三四郎」「草枕」などの冒頭の部分を空で憶えている。読書百遍、意おのずから通ずというのだろうか。「それから」や「心」「明暗」など難しい作品も小学生の時代になんとなくわかったつもりでいた。
 20年ほど前、県下一のマンモス校となった母校を訪問する機会があった。その折、図書室を見学させてもらったのだが、私達の時代と違って、見事なまでに蔵書が整理されているのに驚いた。しかし、「最近の子供はあまり本を読まなくなりましたね」とこぼす先生の話にちょっぴり寂しい思いもした。
 テレビ文化の時代だけに「活字離れ」がここでも進んでいるようだ。しかし時代がどのように変わろうと、1冊の本を通して世界の人々と対話ができる読書の醍醐味は変わるものではない。人生の財産ともなる「良書に親しむ習慣」を私は小学生の時代にぜひともつけていただきたい、と心から念願するものである。

 

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 随筆15 「牟岐へ雨中サイクリング」

 今はJR・牟岐線も阿佐海岸鉄道で高知県甲浦駅まで延長されたが、高校生のころは牟岐駅が終着駅だった。
 駅前に大きなソテツの木があった。この駅は徳島市の私達から見れば遠い遠い南の果ての駅だった。今でこそ、国道は立派に舗装が行き届き、車で一時間半の近いところになったが、そのころは山また山をくぐり抜ける狭いデコボコ道が果てしなく続いていた。
 そんな道を自転車で走ったことがある。高校3年生の夏休みだった。同行したのは河村晴美君、西英勝君、幸田賢一君、新見務君ら県工の同級生達。サイクリングといっても、今のようにギアが何段にも切り換えられる専用車ではなく、ごく普通の、いつも我々が通学していた愛車である。
 荷台に、西の丸の市営グランドから借りてきたテントをくくりつけ、私達は意気揚々と徳島市を出発した。
 牟岐町までは誰も行ったことがない。“まあ!何とかなるわ”で走り始めたものの、行けども行けども山の中。しかも雨が降り始め、ランニングシャツはおろかパンツまでびっしょり。牟岐の海岸に到着したときは疲労こんぱいしてテントを張る元気もなかった。
 その夜は牟岐町から通学していた同級生の芋谷暢重君や沢田勉君が、公民館を借りてくれようやく一息ついた。翌日もどしゃ降り。またしてもバケツをひっくり返したかのような雨の中、ペタルを踏んで徳島まで帰ったのだが、1人として風邪をひく者もなかった。おかげで牟岐の町には、ただ足を踏み入れただけで終わってしまったが、この小旅行は私達に根性と勇気の大切さを教えてくれたように思う。
 そんな思い出も、38年の歳月を越すと、ひたすらに懐かしい。今も目を閉じると、雨に煙る芒々たる牟岐の海がまぶたに浮かぶ。 あまりにも坂が急なため、泥んこになりながら自転車を押して越えた山道もあった。そんな牟岐への道をその後、私はもう何百回も通った。牟岐の町をくまなく歩く機会にも恵まれた。
 東と西の漁港を中心に、狭い路地をはさんで家々が軒を並べる牟岐の町は、古くから栄えた漁業の町である。この港で水揚げされる魚は春は、はも・甘鯛、夏は、はも・しび、秋はめじろ・はまち・甘鯛・鉄ふぐ・するめいか、冬はするめいか・鉄ふぐなどであるが、ここ数年「漁獲量」はジリ貧状態が続いているという。特に高級魚はめっきり数が減っており、せっかく生きたまま関西方面へ出荷する体制を組んでいても、魚がとれないために休んでしまう日もあるという。
 こうした沿岸漁業の不振は牟岐ばかりではなく、県南の漁村では共通の悩みでもある。県では、「獲る漁業から育てる漁業へ」と海南町に「栽培漁業センター」を設立した。ここでは鯛やハマチ、アワビ、アユなどの稚魚が卵から育てられ、県内の河川や沿岸海域に放流されている。その効果は序々に現れているとはいえ、漁業振興のきめ手となるには、まだ前途は遠い。十和田湖にヒメマスを養殖した和井内貞行翁や、お隣りの香川県引田町の安戸池にハマチを放流した野網和三郎翁の先例を待つまでもなく、その道のパイオニアと呼ばれる人達は、だれしも筆舌に尽くせぬ辛酸をなめているものだ。
 厳しい現状に挑戦し、沿岸漁業のあすを拓こうとする人々に心から拍手を送りたい。そしてその地道な努力の結晶がやがて見事な勝利の花を咲かせることを祈ってやまない。

 

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 随筆16 「開発か自然保護か 揺れた橘湾」

 橘湾というと、小学校の遠足で津之峰に登った日のことを思い出す。春先の暑い日だった。石灰質の白い岩膚に「サンキラ」の緑が印象的だった。徳島では「かしわ餅」にこの「サンキラ」の葉を使う。
 汗をふきふき登った頂上から、橘湾が眠ったように見えた。「阿波の松島」と呼ばれる美しいリアス式海岸には、大小の島々が浮かび、まるで一幅の名画のようだった。
 その海岸の一部が埋めたてられ、四国電力の火力発電所が操業を開始した。続いて、日本電工徳島工場が建設された。工場から出る排水で海は次第によごれていった。そんな時代があった。
  昭和57年4月、その橘湾でタンカーが衝突する事故がおきた。重油が海面一杯に流失した。公明党ではただちに調査団を派遣した。メンバーは私と国久嘉計県議、中川徳芳、湯浅優、地元阿南市議である。地元党員の福田勇さんが出してくれた漁船に乗り込み、衝突現場へ。なごやかな海面に黒い重油の帯がひろがっている。重油が漂着した海岸では、必死の回収作業が続けられていた。 「気をつけて下さいよ。すべりますからね」船が接岸すると作業をしていた方々が、私達の手をとってくれた。「さすがは公明党ですね。一番乗りですよ」ヘルメットに染めた公明党の文字とマークを目ざとく見つけたのだろう。責任者の方が被害の概況と、回収作業の進渉具合をていねいに説明してくれた。
 それにしても全くひどい。白砂青松の海岸線は真っ黒な重油がべっとりとこびりついている。湾内を回遊する魚は逃げられるとしても、この海岸でとれる貝や海草はおそらく全滅だろう。漁業補償は保険会社との話し合いに持ち込めるが、漁業権を持たない一般市民の被害はいったい誰が補償してくれるのだろうか。
 重油がいったん海岸の砂に吸収されると、元に戻るには5年も10年もかかるという。日曜日など家族総出で貝ひろいを楽しむ。そんな庶民のささやかな喜びは、何の補償もなく、無残に奪いとられてしまうのだろうか。
 橘湾の開発が進めば進むほど、こうした事故の起こる可能性はますます大きくなる。現在、電源開発と四国電力が火力発電所の建設を進めているが、自然保護には慎重なうえにも慎重な配慮をお願いしたい。
 開発か自然保護かを考えるにあたって、いたずらに経済効果を追求する論議や、イデオロギーのみで突っ走る論議は、真に住民の側に立つ論議とはなりえない。砂をかむような意見の対立を生むばかりである。
 活力あるふるさとを建設するために開発による産業政策の展開は避けて通れない本県の課題である。自然保護もまた人々の生存権に基づく基本的な課題である。双方の接点をどこに求めていくか。その選択権は第一に地元住民の意思にあると私は思う。そのためにも関係者は開発に着手する前に全ての情報を判断材料として市民に提供すべきだろう。そして住民の方々もまた自己の利害にとらわれるのでなくより高い視点に立って、一つのコンセンサスにまとめていく努力をすべきである。ベンサムのいった「最大多数の最大幸福」という最大公約数がどこにあるか、賢明な判断が主権者である住民の手で行われることを心から期待したい。 開発か自然保護かで揺れた橘湾だが、関係者の粘り強い努力が実を結び、住民の皆様の御協力も得て火力発電所の建設が着々と進んでいることを今は心から喜びたい。願わくは、環境への負荷が最少となる操業を切望してやまない。

 

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 随筆17 「眉山西部公園とバレーボール特訓」

 加茂名中学校の運動場は小川一つを隔てて眉山西部公園に続いていた。当時、運動場の周囲には人家もまばらで、見渡す限り、田んぼや畑が広がっていた。小さなあぜ道を抜けてよく西部公園まで登ったものである。
 とくにバレーボール部では冬場の特訓というとかならず西部公園の坂道をうさぎ跳びで登らされた。春は、桜が咲きほころび、ボンボリに灯がともされるこの遊歩道も、冬場は行き交う人の姿も見られないほどに寂しい。落葉を踏みしめながら、ハーハー息をはずませて登った坂道は本当に長かった。ジグザグに曲がりくねった道を登りつめて、忠霊塔のある広場の石垣が見えると、思わず歓声をあげたものだった。
 広場から眺めると、中学校の校舎や徳島大学の医学部が真下に見え、はるか向こうに吉野川がゆったりと流れていた。いつも変わらぬ風景だが、何となく心が落ち着く思いがしたことを憶えている。 バレーボールの練習で、このうさぎ跳びのほかに思い出すのは、深夜、月をボールに見たててパスやトスの練習を繰り返し、繰り返し行ったことである。当時の私達には体育館がなかったので練習も試合もいつも屋外のコートで行った。汗と泥にまみれながら、どこまでもボールにくっついていく執念を、これでもかこれでもかと言わんばかりに教え込まれた。当時のスパルタ教育があってこそ現在の健康があり、精神の鍛錬ができたものと今になって心から感謝している。
 衆議院選挙に初出馬して次点に泣いた日から次の選挙までの3年半というもの私は、県下の町や村をそれこそ、くまなく連日のように歩き続けたが、当時の練習で鍛えた足腰の強さがおおいに役立った。若い人々に心から訴えたいことは、人生の基礎づくりとなる青春時代こそ、おおいに頭脳を鍛えるとともに、スポーツを通して、肉体を鍛えることを忘れてはならないということである。
 「受験勉強に忙しい」と言われるかも知れないが、頭でっかちの青白きインテリに世の中の実相は決してわかるまい。まして、この動乱の世の中を変革する力など湧いてくるはずもない。  大衆の中に飛び込み、苦悩も喜びもともに分かち合いながら、みずからの知恵と責任と力で時代を切り拓いていく。それが21世紀に生きゆこうとする青年の生き方でなければならない、と私は思う。そのためには一にも二にも健康でなければならない。強靭な体力と強靭な精神力の持ち主でなければこの仕事はつとまらない。 「最近の生徒は、スポーツをするとすぐ骨折する。食事にも好き嫌いが激しく、給食はいつも残飯の山です」という報告を、現場の先生方から聞いたことがある。物が豊かになるにつれ、確かに体位は向上した。身長も体重も私達の時代とは大幅に違う。しかし体力はどうか。人生という真剣勝負の舞台で必要なのは、見掛け倒しの体形ではなく、体力という中味なのだ。
 加茂名中学校は戦後の学区制の変更によって誕生した新しい学校だった。校舎も新しく先生方もよき伝統を築き上げようと真剣だったに違いない。そうした草創の息吹のなかで、泥くさいながらも人間味にあふれた教育を受けられたことを私は心から感謝している。

 

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 随筆18 「忘れ得ぬ祖谷の味、ソバと“デコ回し”」

 剣山のふところに抱かれた祖谷の良さは、1日や2日の観光旅行ではわかるまい。できれば1週間、短くても3日間ぐらいの日程をとって泊まり込みで祖谷を訪問することをお勧めしたい。
 春の遅い祖谷では5月になって桜が開く。このころの祖谷路は、まさに百花繚乱の感がして心うき立つ思いがする。夏はホタルが飛び交い、秋には満山これ紅葉となる。冬の祖谷路は道路が凍結して危険だが、シンシンと降り積もる雪の夜、コタツを囲んで昔話を聞くのも味わい深いものだ。  台風のさなかに訪問して、上りも下りも道路が決壊してしまい、三昼夜を京上の平岡一男さん宅でお世話になったこともあった。
 私が訪問したのは東祖谷山村では、一番奥の名頃からはじまって菅生、久保、西山、落合、栗枝渡、京上、若林、小川、樫尾、京柱峠、元井、和田、今井、平など、西祖谷山村では、閑定、善徳、一宇、尾井ノ内、徳善などの地域である。車が通らず歩いて登った地域も多い。細いうさぎ道を汗を流しながら登った農家の軒先で、一休みしながらいただくお茶のおいしさは格別だった。  なかでも忘れられない祖谷の味は、ソバと“デコ回し”である。祖谷では昔から、来客にソバを打つ風習がある。今でもこの風習は残っていて、台所でコトコト音がしているかと思うと、お椀に山盛りになったソバが出てくる。「まあ、おひとつどうぞ」と勧められて、ハシをとる。今、打ったばかりのまさしく手打ちソバである。太いのあり細いのあり、バラバラだが、やけに短い。「混じりっけなしのソバ粉ですから。町のソバみたいに長くならないんです」という。これがなかなかイケるのである。
 お椀が空になるのを待ち構えていて「もうひとつどうぞ」が繰り返される。断っても断っても山盛りのソバが出てくる。「もうお腹は一杯です」というと、今度は、大皿に“デコ回し”の山だ。 “デコ回し”というのは、土地で穫れたジャガイモに味噌をつけて焼いたものだが、昔はイロリのふちで、人形浄瑠璃の木偶(でこ)回しよろしく焼いたのでこの名前がある。  プーンと鼻をつく焼き味噌の香ばしいにおいが、一段と食欲を誘う。祖谷のジャガイモは小型だが、粉がふくほどに実がしまっている。ジャガイモと味噌という素朴な取り合わせながら、焼くことによってこの2つが見事に調和してえもいわれぬ味となる。
 “デコ回し”をいただきながら、話ははずむ。とにかく祖谷の人達は話好きだ。夜の更けるまで、というより、ことによったら夜の明けるまで、つき合わされることも多い。話のテンポも、びっくりするほどゆったりしている。
 昔、祖谷では米が穫れなかったという。山が高く気温も水温も低くて水稲に適さなかったのが原因ということだ。米が作れない農家ではソバやジャガイモが日々の食卓を飾った。ジャガイモに味噌をつけ、焼いて食べるというのは山里の人達の生活の知恵でもあったろう。
 星降る夜、心づくしのごちそうをいただきながら、心美しい人々とともに人生の来し方を振り返る。都会の喧騒を離れてこんな“ぜいたく”ができるのも祖谷ならではのことであろう。

 

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 随筆19 「今は昔、田宮と矢三の麦踏み風景」

 私達が県立徳島工業高校に通っていたころの田宮や矢三町は見渡す限り田園が広がっていた。ヒバリのさえずる春は、馬や牛がのどかに「しろかき」をする風景があった。水の張られた田ではカエルのコーラスが夜中まで聞こえた。家族総出の田植えのにぎやかなことといったらなかった。
 やがてカンカン照りの夏ともなると、稲はグングン生長し、緑のじゅうたんを敷きつめたようになった。そして稲穂の波を渡る風の涼しさに秋が感じられるころになると、黄金色に実った稲は次々に刈り取られ、ハザにかけられた稲穂が、そこら中にきれいな幾何学模様を描き出すのだった。
 木枯らし吹く冬には、サクサクと霜柱を踏んで進む麦踏みの風景があったことも忘れられない。
 そんな四季おりおりの田園の風景は、私にはことになじみ深いものとなっていた。というのは高校1年生のころ、わが家が蔵本から、田園地帯の真ん中の田宮町広坪(現在の北田宮2丁目)に移転したからである。 家の前も後ろも右も左も、ともかく四方が田んぼだった。西船場のときも蔵本のときも町の中だっただけに、全てが勉強になった。農家の方々との新たなお付き合いも始まった。土と取り組む人々のご苦労も身近で知ることができた。稲刈りや麦刈りのお手伝いもさせていただいたが、麦刈りのとき、腰が痛くなるのにもまいった。また麦の穂が体にささるとかゆくてかゆくて仕方がない。これにはいささか閉口したものである。
  当時、学校に通う田宮街道は舗装ができていなくて、砂煙のなかを自転車で往復した。夏休みになると競馬場跡にできたゴルフ場(徳島ゴルフ倶楽部吉野川コース)でキャディーのアルバイトをしたこともある。私は高校を卒業するとすぐ県外に飛び出したので田宮での生活は2年ちょっとの経験しかないが、それ以降も永く住みついた両親と3人の妹や弟にとっては、田宮は文字通り第二のふるさととなったのである。
  ところで見渡す限り田園が続いていた田宮や矢三の町も今は見違えるばかりに変わりつつある。JR高徳線は高架となり田宮街道は拡幅工事の真っ最中、スーパーや商店が建ち並び、田んぼは埋めたてられて閑静な住宅地帯となった。南田宮の運動公園には陸上競技場や、市民プールがあり、人々に親しまれている。
 ことに県立徳島工業高校、県立城北高校に加えて県立中央高校、県立城の内高校が相次いで開校し、若い人達の歓声が聞かれるのもうれしい。 矢三と応神を結ぶ四国三郎橋の完成で藍住町など吉野川北岸の町々と直結し、田宮街道の拡幅工事には一層拍車がかかっている。 次の課題は田宮川の水質浄化だ。幸い、徳島市北部浄水場が完成し、渭北、渭東の地域では公共下水道となった。次は田宮、矢三そして加茂名地区である。公共下水道ができあがると、田宮川やその先の袋井用水にも昔のような清流がよみがえることだろう。

 

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 随筆20 「夢まぼろしの袋井用水」

 15年間の県外での生活を終え、ふるさと徳島に帰った私は、昭和51年3月、庄町4丁目に、妻と2人で新居を構えた。新居といっても二戸一の民間アパートである。 庄町は母校である加茂名小学校や加茂名中学校のあるところで、同級生や知人も多く、私にはもともとなじみの深いところだった。その点、東京生まれで徳島は生まれて初めての妻にとっては心配もあったろう。が、それは全くの紀憂に過ぎなかった。アパートの隣人は皆、気安い人達ばかりで、1ヶ月もすると、10年の知己でもあるかのように気楽に阿波弁で会話ができるまでになっていたのである。
  庄町には昭和51年3月から55年2月まで4年間住んだ。その間に長男伸一と二男洋二が誕生した。子供達に私自身の子供の頃の話を語って聞かせるとき大変に寂しい思いをすることが一つだけあった。それは、こんこんと清水が湧き出でていた袋井用水が当時の面影もないほどに枯れてしまっていたことである。 袋井用水は今から347年も昔の元禄5年(1652年) に島田村の庄屋・楠藤吉左衛門が私財を投げ打ち7年の歳月をかけて作ったものである。この事業は吉左衛門の子・善平、孫・繁左衛門と三代にわたって継続され、干ばつに苦しむ島田・庄・蔵本三村三百町歩の水田をうるおしたという。 私も小学生のころ、楠藤吉左衛門の苦労談を調査研究し、徳島新聞に写真つきで紹介されたことがあった。非難中傷の嵐を受けながらも農民のために初志を貫く吉左衛門、水脈をさぐりあてるために、耳を凍てつく大地にこすりつける吉左衛門。そんな人となりに感動しつつ鉛筆を走らせたことを、今も鮮やかに思い出す。
  小学生のころも中学生のころも、私達はいつも袋井用水とともにあった。鮎喰町の水源はどこまでも青く澄みわたり、夏でも震え上がるほどに冷たかった。深い用水に道路の上から飛び込むと、夏の熱さなんかは一度に吹き飛んだ。魚も一杯いた。舟を浮かべて遊んだこともあった。夜はホタルが飛び交い、ササの葉でよく追いかけたものだった。 加茂名小学校の校庭にも袋井用水は流れていた。運動場で走り回ったあと、誰もがこの用水に入って頭から冷たい水をかぶり合ったものだった。学校から帰るときも、この用水に笹舟を浮かべて誰のが速いかワイワイ競争し合いながら家路についたものだった。いつのまにかカバンを放り出して、メダカやフナやザリガニをとるのに夢中になっていたこともあった。
  そんな袋井用水も今はアシやカヤが生い茂る排水路になってしまった。すでに魚の影もなく、ときたま、ばかでかいおたまじゃくしがニョロニョロ動いているだけである。かつて水田に水を汲み上げる水車が並んでいた風景などもう知る人すらいない。 水源の枯れた最大の原因は都市化と生活水準の向上による水の利用度の大幅な増加に伴って、地下水を汲み上げすぎたことにあるらしい。地上の変化はそのまま地下の変化に直結している。
  私達人間は日々の生活の物質的な豊かさなどという目に見える部分には熱いまなざしをむけながら、目に見えない部分は忘れてしまっていることが多い。 自然からの強烈なシッペ返しを受ける前にぜひとも考え直さなければならない人類の課題だろう。
  私の手元に徳島市加茂名公民館内、袋井かるた会が発行した「いろはカルタ 袋井の流れ」がある。絵を飯原一夫先生が文を三好昭一郎先生が書かれたもので、私も楠藤家の方々とともに製作、販売のお手伝いをさせていただいた懐かしい思い出がある。 袋井用水に再び清流を!!は加茂名に住む人々の共通の思いだが、公共下水道の1日も早い完成により、何としても実現したいと考えている。

 子供のころ遊んだ水源の周辺は袋井公園として整備され、袋井用水水源地保勝会外三団体の方々が歌碑を建立している。
「袋井の水は尽きせじとこしえに翁の勲をたたへ流るる」。
保科千代次さんの歌だ。文字は私の加茂名小学校時代の恩師である森岡進先生が筆を執られた。袋井用水に再び清流を取り戻すことができれば、楠藤吉左衛門翁はいかほど喜ばれることであろうか。

 

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 随筆21 「たくましい商人の街・船場」

 船場は私の生まれ故郷である。二歳のとき太平洋戦争による徳島大空襲で船場の家は焼け落ちてしまった。

 小泉周臣氏の著による「船場ものがたり」(徳島市民双書・九)には、巻末の船場町家並図に大正初期のものがあり、ここには、はっきりとわが家が示されている。211ページに恵西自転車店の記載があるが、私の父はこの屋号で自転車店を経営していたのである。父母から聞かされた懐かしい家並みも見事に再現されており、私としては生まれ故郷の街の姿を、あれこれ連想するばかりである。
  今もそうだが、船場は藩政時代から商人の街であった。天正13年(1585年)一宮から徳島に移った蜂須賀家政は、築城と併行して城下の町割りを行った。船場に商人の街ができたのはそのころに逆のぼるが、年とともに、新町橋を中心とした東西の船場は、新町川を運河として物質の集散する舞台となったのである。 那賀や海部の南方からは沿岸づたいに、吉野川流域や上流地域からも川を利用して、それぞれの産物が城下の船着場である船場へと集まってきた。さらに特産の藍、塩、タバコを他藩へ送り、他国の商品を買い入れる国内交易の一大拠点ともなっていくのである。 ことに西船場では藍商人の出入りが激しく一段と活況を呈した。
  一世を風びした阿波藍もやがてドイツの化学染料(人造藍)の輸入とともに衰微していくのだが、新町川の両側に並ぶ藍倉の美しい風景は、長い間、船場商人の象徴でもあり、今も懐かしく思い出す人が多いに違いない。
  誰びとも橋ゆく人は見たまいぬ 流れにうつる藍倉の白・・・・・ これは、徳島文理大学理事長をつとめられた故村崎凡人氏が昭和9年につくられた歌である。 昭和6年に徳島を訪れた女流歌人の与謝野晶子も徳島の藍場の浜の並倉と新町橋に秋風ぞ吹く・・・・・ と美しい徳島の風景を歌っている。 この藍倉も徳島大空襲で一夜のうちに灰燼となった。
  私は今、事務所と居宅を出生地に間借りしているが、戦前のことを知っている人の少なくなっているのに驚かされる。たまに昔のことを知っている人がいて、「あんたのお父さんと朝から晩まで一杯飲みながら、よう世間話をしたもんや。」などと声をかけてくださる。そんなときは本当にうれしいものだ。
  船から車の時代となり、問屋業を営む船場の方々は、大半が繊維団地に店を移したが、今もたくましくこの地で商売を続けている方々の健闘に心から期待したい。最近は新町川の水際公園が整備され、若者に人気がある新しい商店街も生まれつつある。常に時代を先取りし、したたかに生き抜いてきた船場の人達である。創意と工夫で新たな商いの道を開拓されることを強く信じている。

 

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随筆22 「大歩危小歩危への旅」

 ドライブイン「まんなか」から遊覧船が出ている。右に左に見事な舵さばきを見せながら船頭さんが、「大歩危小歩危」の見どころを語ってくれる。なかなかの名調子。私は東京や大阪からのお客さんには、きまってこの遊覧船を案内することにしている。 春はつつじの薄紫、夏はみずみずしい緑、そして秋は赤や黄の紅葉が燃え立つばかりに美しい。満山をおおう天然の色彩が岩と水に調和して日本を代表する渓谷の美をかもし出す。そんな大歩危小歩危の船下りは、いつ訪れても心踊るものがある。
  私は中学校の遠足で「大歩危小歩危」を訪れて以来、その美しさに魅了されてしまった。「大歩危小歩危」の名前の由来は「大きな歩幅で歩いても小さな歩幅で歩いても危ない」ほど谷が深く道が狭いということにあると聞く。 その昔、ここを旅する人達は、現在の国道32号線より、はるかに高い山の尾根道を歩いたそうだ。現在もその街道は山中にひっそりと残っているが、参勤交代する土佐の殿様も、ここでは馬や篭を下りて、自ら歩かれたという。かの坂本竜馬が土佐藩を脱藩して京大阪に出たときも、おそらくこの街道を抜けていったことであろう。街道から眺める大歩危小歩危の渓谷は、それこそ、千尋の谷底に思えたに違いない。
  そんな「大歩危小歩危」を思うとき、私がいつも連想するのは「親不知子不知」の海岸である。新潟県糸魚川市にあるこの海岸を私は数回訪れたことがある。日本海に重い雲が足れ込んだ冬の季節であった。この時期の日本海は強い季節風の影響を受け、絶えず荒れている。荒涼たる海にこれまた、海岸線を削り取るようにしてそそり立つ断崖絶壁。白く波立つ海にカモメが乱れ飛ぶ。心寒々とした思いのする風景だった。 そんな海岸線を一本の街道が通っている。それが、「親不知子不知」と呼ばれる細道である。「親不知子不知」という名前の由来は、「親が子を、子が親を心配するひまもないほど危険な海岸沿いの街道」というほどの意味でもあろうか。
  「大歩危小歩危」といい「親不知子不知」といい、越さねばならぬ旅路の街道であったという点では共通している。しかしながら、これは南海道と北陸道の差でもあろうか。「大歩危小歩危」には暗さというものがない。
  空も水も山も空気もとりまく全てのものが、あふれんばかりの光を浴びて、底抜けに明るいのである。この明るさが私を魅了させるのかも知れない。 大歩危の船下りと、祖谷のかずら橋をセットした観光ルートが都会の人々の人気を集めている。
  四国三架橋時代になっていよいよ観光客は増加していると聞く。人気の秘密は、単に人里離れたひなびた風景にあるのではなく、底抜けに大らかで明るい天然自然の美と、素朴で暖かい土地の人の人情味にあるのではないかと私は思う。 商業主義にほんろうされる観光開発でなく土地のぬくもりを失わない観光資源の再開発を、関係者にお願いしたい。「また、来たい」観光客にそう言わせることができるかどうか、それを徳島の魅力を語るキーワードとしたい。

 

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随筆23 「鴨島菊人形と江川遊園地」

 秋の花は菊である。 ところで、「菊作りは土作り」といわれるように菊を愛し、菊を作ろうという方々は、まず、土作りに、細やかで粘り強い情熱を傾けてこられた。はじめに山へ入ってクヌギの落ち葉をかき集める。カサカサに乾いた落ち葉を2年間、庭に貯えておき、こなごなにくだいて腐葉土や砂を加え、適度に混ぜ合わせる。その土をさらに、ふるいにかけてきめの細かな土を作るという具合だ。この土にさらにたい肥や油カスなどを加え、育てようとする菊に見合う“土”を作るのである。 私には菊作りの経験がないので、聞きかじりなのだが、ともあれ“土作り”には長年の努力と情熱が込められていることは確かだ。
  鴨島町は戦前から菊人形の町として全国にその名が知られていた。最盛期には30万人の観光客を数えたという。私達の子供の頃は戦前ほどではないにしても結構、にぎやかであった。 今はJRとなった国鉄・鴨島駅を降りると、町全体に優雅な菊の香りが漂っていた。菊人形の会場には紅白の幕が張られ、忠臣蔵や傾城阿波の鳴門などの名場面が菊で形どった人形で表現されていた。人形ばかりでなく菊の品評会なども行われていたようである。入賞した作品には金や銀の短ざくがつけられていたが、色の鮮やかさといい、花の大きな枝ぶりの見事さといい”やはりいいものはいいな”と子供心に感嘆するばかりだったことを憶えている。
  菊人形が終わると江川の遊園地で遊んだ。吉野川の伏流水が湧き出すこの江川の水は清澄そのもので、夏は冷たく冬は湯気の立つほどに暖かかった。 最近は、親水公園として整備されたものの伏流水が減ってしまったのか、江川の流れもどんよりと濁ってしまい往時の面影すらない。ここの鯉は、数の多さと、その色の鮮やかさが印象に残っている。
  太鼓橋からえさの「ふ」を投げると、群がって食べにきた。ボートに乗って「ふ」を投げると、水しぶきがかかるほど勢いよく鯉が集まってきたものだ。今は水位の低下とともに鯉の姿もめっきり減ってしまった。 菊人形の方も、その後、会場の変遷があり、昔ほど盛んではない。しかし、大正時代からの伝統は今も受け継がれ、町には菊を愛する人達が多い。秋ともなると、こうした人達が丹精込めて作った菊が、町のあちこちに展示され、町全体に菊の香りがあふれる。ささやかながらJR・鴨島駅の西の方に展示場もできる。
  菊作り 菊見るときは 陰の人 あまりにも有名な吉川英治先生の句である。 最近は新宿御苑や徳島城公園で菊の展覧会を鑑賞させていただくことが多いが、菊を見るたびに鴨島とこの句を思い出す。

 

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 随筆24 「少年のころの楽園蔵本」

 蔵本は2歳から16歳までの多感な少年時代を送った懐かしい土地である。太平洋戦争の徳島大空襲で西船場の家を焼かれた私達は、蔵本元町2丁目五番地に移住したのであった。 今もはっきりおぼえているのは、大きなリュックサックを背負って父が外地から復員してきた日のことである。庭の玉砂利をサクサクと踏んで帰ってきた。この日を母をはじめ家族全員がどんなにか待ちわびていたことだろうか。当時3歳だった私だが、その光景だけは今も脳裏に焼き付いている。 その次に覚えているのは、マラリアの高熱にうなされている父の上にふとんを何枚も重ね、さらにふとんの上に私が重しとして乗っかかっている光景である。東南アジアのジャングルを生命からがら逃げ帰ってきた父の唯一の土産がこのマラリアだった。“寒い寒い”という父に子供の私ができるのは、これぐらいしかなかった。
  少年の日の記憶は、そのあとは一挙にワンパク仲間と遊び回っていた思い出に飛ぶ。蔵本元町の商店街は佐古の三つ合い(今の八丁目)から島田石橋まで、切れ目なく商店が続いていた。今も一丁目から三丁目までの店は、ほとんどが昔のままで、懐かしい方々ばかりであるが、私達の遊び場はこの往環ではなく、路地裏や、蔵本の町を取り巻くように流れる田宮川と、その周辺であった。 当時の田宮川は大きな柳の枝が岸辺を覆い、澄んだ水が勢いよく流れていた。鯉や鮒やなまずなどがよく釣れ、いつも何十人という太公望がツリ糸を垂れていた。時おり、荷を積んだ船やイカダが往来すると、私達は歓声をあげながら岸辺を走りまわったものである。  蔵本には田宮川に沿って3つの港があった。港というより、荷揚げ場のようなものであるが、私達は「浜」と読んでいた。南から「油浜」「大浜」「テコアンの浜」である。 これらの浜は、明治の初期から昭和10年ごろまで大活躍し、九州の石炭、淡路のミガキ砂、鳴門の芋、勝浦の木材などがこの浜から荷揚げされ、蔵本近郊の工場などに運ばれたようである。しかし、私達の時代になると川を使う運送方法は次第にさびれていき、浜は私達にとって格好の遊び場となっていた。 浜では、カンケリ、メンコ、ケンケンパーなど、なんでもできた。夏休みなど、川で魚すくいをしたあと、水遊び、そして浜でチャンバラごっこ、朝から晩までこの浜で遊んだものだった。家の中でゴロゴロしていようものなら、「浜へ行って遊んできい」というのが蔵本の親達の決まり文句でもあったようだ。
  最近、蔵本の町をすみからすみまで歩いてびっくりしたのは、懐かしい浜が跡形もなくつぶされ、住宅地に変わってしまっていたことである。とともに家庭や工場の排水で川の水は濁り、魚達の影もない。改修工事によってコンクリートで固められた川は、すでに排水路と化してしまったかのようである。 時代の進展とはいえ、少年時代の思い出をかくも無残に削り取られてしまうと、自分の身体の一部を削り取られたような情けない気持ちになる。今はもう浜の呼び名を知る人も少ない。
  やはり“ふるさとは遠きにありて思うもの”なのだろうか。 いや、そうではない。実際、田宮川の下流の新町川は見事に復元しつつあるではないか。次は田宮川だ。断じてそうだ。もう一回コンクリートをはぎとって柳の木の土手を作ってみたい。流れる水もきれいにしたい。吉野川や鮎喰川から清水を引く方法だってあるはずだ。私は人知れず願っている。私の子供のころのように今の子供達にも岸辺でもう一度、魚釣りをする喜びを味わってもらいたい、と。

 

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 随筆25 「吉野川橋と水上飛行機」

 私は昭和51年3月、15年ぶりに、ふるさと徳島へ帰った。その時の第一印象は、どこへ行っても、恐ろしいほど昔のままの姿が残っていることだった。まず高徳線のディーゼル車と線路そして国鉄の駅々が、昔のまんまの姿だった。頂上のあたりが少々にぎやかになっているとはいえ、眉山も城山も昔のまんまだった。ことに蔵本元町の商店街や庄町の通りは、まるで時代劇のセットの中に帰ってきたかのような思いがするほど昔のまんまだった。
 そんななかで一つだけ違っていたのは、吉野川橋の下流に吉野川大橋が完成していたことである。その後、立派なバイパスがこの橋と直結し、鳴門・徳島・小松島を結ぶ主要幹線はこちらの方に移っていったが、私の思い出に残るのはやはり古い吉野川橋である。
 まだ名田橋はなく“名田の渡し”だったころの話である。吉野川橋は、徳島市では吉野川にかかる唯一の橋だった。昭和3年12月に完成したこの橋は、増田淳の設計による曲弦ワーレントラス橋で、当時の技術の粋を集めて作られた。全長1071メートル。完成時は東洋一の長大橋であり、県民にとっては大きな誇りでもあった。  17個の橋けたからなる美しいアーチ橋は今も健在で、旧国道11号を結び、通勤通学時には車や自転車が列をなす。
 高校生のころだったろうか。一時、この橋のたもとに関西と結ぶ水上飛行機が発着していたことがあった。飛行機は風の向きに合わせて、ときには吉野川橋をくぐり抜けて着水することもあった。それはアクロバット飛行ともいってよいほど見事な操縦ぶりで、私などもよく見に行ったものである。
 乗客の定員は八人ほどの小型機であったが、飛行機が発着できるほど、吉野川は広く大きく、しかも水量が常に豊かで、水面も静かであったということだろう。今もその風景は変わらないのだが、飛行機の発着場はすでになくなり、そのあたりではたまに魚をつっている人や、ヨットやウインドーサーフィンを楽しむ若者を見かけるばかりである。
 ところで吉野川橋を設計した増田淳は明治16年9月25日香川県に生まれ、明治40年東京帝国大学土木工学科を卒業。翌年、橋梁研究のため渡米。帰国後は日本各地で橋の設計、施行に携わり、東京は隅田川の千住大橋をはじめ六十を越える橋をつくっている。徳島県でも大松川橋、勝浦川橋、三好橋、穴吹橋、吉野川橋、那賀川橋が彼の作品。電子計算機のない時代によくぞこれだけの橋をしかも形式の違う橋を設計したものと感心するばかりだ。 ちょっと見逃しがちなのだが、吉野川橋の北詰に豊川仲太郎の石碑が建っている。豊川仲太郎は板野郡沖島村(現在の徳島市川内町沖島)の人で、吉野川橋がかかる前に、この場所に個人で木造の賃取橋を架けていた。この賃取橋を古川橋と呼んだことから今も愛情を込めて土地の人は吉野川橋のことを古川橋という。豊川翁の子孫は今も健在で、私も親しいおつき合いをさせていただいている。

 

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 随筆26 「シャクナゲとミカンそして佐那河内米」

 朝起きると、眼下に雲海が広がっていた。夜来の雨もやみ、山々を包んでいた霧が晴れていくと、そこには淡いピンク色をした花々が、におうように咲き誇っていた。シャクナゲの花であった。
 もう四十数年も昔のことになってしまったが、初めて佐那河内村で一泊した日の、印象深い光景を、私は今もはっきり憶えている。たしか中学校の生徒会役員で一泊二日の研修会を行ったときのことである。担任の森宮九十男先生が佐那河内村出身であることから、何かの縁をたよって研修会を行ったもののようである。
 私達の多くが生まれて初めて訪問する佐那河内村であった。村内に足を踏み入れたとたん、私達は歓声をあげた。山々の緑の濃さと、深山から流れ下る水の美しさは、まさに別天地を思わせるものであった。
 さらにその晩、いただいた御飯のおいしかったことといったらなかった。一つ一つの米粒がシャキッとつっ立って見事な光沢まで放っている。食べ盛りの私達は、もう無我夢中で食べたものだった。私は米作りの専門家ではないが、農家の人々の話によると「うまい米は谷の水で作られる米」だそうだ。板野郡などでも土の肥えた下板より、土のやせた上板の山間地で穫れる米がうまいという。
 佐那河内村を歩くと、今でも“耕して天に至る”といわれるほど、よく手入れされた田んぼが、高地まで続いている。耕運機も入らないような、ネコの額のような土地にも水が張られ、稲が植えられる。こんな土地で米を作るのは平地の人から見ればたしかに重労働であるはずだ。農家の人々の貴重な汗の結晶が、おいしい佐那河内米の一粒一粒となっていることを、私達はけっして忘れてはなるまい。
 最近は、徳島市から佐那河内村、そして神山町から剣山、そして高知県へと抜ける県道が国道に昇格され、徳島市から車で30分足らずという佐那河内村は、都市型近郊農村として熱い注目を集めている。
 一時、ミカンの里として知られた佐那河内村だがミカンやスダチが、すでに生産過剰気味になった現在、これに代わる目玉商品を何にすべきか、議論の分かれるところである。農家では春になると、野や山を豊かに色どる山菜類をはじめ、電照菊などの花卉や、水ブキの栽培など多角的な経営を試みているところが多い。
 私は考えるのだが、都市に住む人々にとって“ふるさとの味”は忘れられないものだ。佐那河内村という地の利を最大限に生かして、町の人々に新鮮な“ふるさとの味”を提供するーこれこそ、都市型近郊農村としての活路を開く視点ではないだろうか。
 佐那河内村をくまなく回って感じることは、どんな山道やあぜ道にも、春になるとフキノトウが芽を出し、山ブキが競い合うように群生している。土地の人々は見向きもしないが、町に住む私達にとっては、もう得難くなった“ふるさとの味”である。フキノトウや山ブキにも立派な商品価値があると私は思うのだが、いかがなものであろうか。

 

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 随筆27 「塩田跡に美しい学園都市」

 鳴門といえば渦潮と塩田を思い出す。渦潮は昔のままだが、塩田はすっかり姿をかくしてしまった。今の小鳴門橋のたもとには見事な入浜式の塩田が広がっていた。小鳴門橋を渡った高島あたりも見渡す限り塩田だった。
 塩田の作業というのは途方もない重労働であった。重い海水を海から汲んできては、砂浜に撒き散らし、何度も何度もこれを繰り返して濃い塩水を含んだ砂をつくる。それを大きなカマで煮詰めて塩を作るというものである。
 塩は人々の汗と涙の結晶であった。従って、一握りの塩も粗末にしてはならないと教えられてきたものである。
 何人の人々が炎天の下で汗をしたたらせてきただろうか。そんな塩田跡が、今では、見事な市街地に変身している。整備された道路が縦横に走り、商店や住宅が建ち並ぶありさまは新しい鳴門の姿を象徴しているかのようである。
 ことに高島は、見違えるばかりの変身ぶりだ。一昔前までは、人影もまばらな湿地で、塩田ばかりが広がっていた寂しいところだったが、塩田跡に鳴門教育大学が開校して以来、一躍人々の注目を集めたのである。
 教育大学はすでに開校17年を迎え、整備が一段と進んでいる。青い空と緑の山々を背景にした広大なキャンパスに、全国から集まった若い力があふれている。大学を中心に、付近の土地も次々に開拓され、活気づいてきた。塩田跡は美しい学園都市に生まれ変わったのである。  こんな話を思い出す。
 九州は阿蘇での話である。ここにはとてつもなく広い大平原がある。草千里などとよばれる牧草地でゆうゆうと放牧されている牛の姿はよく知られているところである。
 ここに大学を作ろうという話が持ち上がった。大学には広いキャンパスが必要だ。過密化の進む都会で大学の用地を確保することはなかなか難しい。土地を安く提供するということで大学側も喜んだ。町はそんな大学に一つだけ条件をつけた。寄宿舎を作らないで。学生は全員、付近の農家に下宿させること。そして下宿代はできるだけ安くするから、農繁期は大学を休みにして学生に農作業を手伝わせることというのである。
 この提案に農家の人達も喜んだ。過疎化の進む農村では若い働き手が都会に出てしまって農作業にも支障をきたしている。学生が下宿してくれることは心強いし、農繁期には、学生達が我が子のように耕運機を運転してくれる。学生や学生達の父兄も喜んだ。遠い都会に子供達を送り出せば、何かと心配だ。第一、下宿代からはじまって生活費の仕送りだけでも大変だ。それが、農家に下宿し、農作業も手伝うということになれば下宿代も安くてすむし、何よりも健康的でいい。
 こんなわけで誕生したのが東海大学阿蘇分校である。町としても、若い人達が集まることで活況を呈し、牛と馬しかいなかった大平原に粋なコーヒー店やブティックができたという。ここでも学園都市が誕生したのである。今はどうなっていることだろう。発展していることを心から祈りたい。
 大学を一つ誘置することによって、町は大きく変わる。大学を公害のない第四次産業という人もいるほどだ。波及効果の大きさは第一次産業をはるかにしのぐものがある。徳島発展の一つのポイントとして大学を中心にした町づくりをを考えてはいかがなものであろうか。

 

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 随筆28 「四国東門も今は昔

 その昔、淡路島は“阿波路島”と書き、京阪神から、阿波の国、つまり徳島県へ行く道しるべだったという。明石海峡大橋の開通で便数が減ったとはいえ、今も淡路島沿いの海路では、1日に何回もフェリーや高速船などが関西と徳島を直結している。
 関西と徳島のつながりは古くかつ太い。そして古くから、関西と結ぶ徳島県の海の玄関として県民に親しまれてきたのが小松島港であった。
 私がこの港から初めて大阪に出たのは、小学校1年生の時であった。当時は阿摂航路といい、あきつ丸などが就航していたが、子供心にもその船の大きさには圧倒される思いがしたものである。
 船は昼夜の2便だった。それを私達は昼航海、夜航海などと呼んだが、夜航海では午後十時ごろ小松島を出航し、翌朝の5時ごろ、神戸についたように思う。神戸につくと、船内は急にあわただしくなる。神戸の港から、「ちくわ」や「するめ」を背負ったおばさんが「いらんかえ、買わんかえ」と船内にまで入ってくる。制服に身を固めたいかついおじさん達がドヤドヤと入り込んでくる時もあった。ヤミ米の摘発にである。大阪から徳島へ買い出しに来ていたのであろうか。大きな荷物をもったおばさんから「ぼん、もっとってよ」と小さな袋を預かったことがある。  米が二升ほども入っていたのだろうか。おばさんのあまりにも真剣な顔つきに圧倒され、私は身の縮む思いで、その袋を抱えていた。体中に冷や汗がじわっと吹き出た。幸い、子供の私には目もくれないでおじさん達は通り過ぎ、私は袋をおばさんに無事返すことができた。何度も子供の私にお礼をいうおばさんを前に私は思った。食べるためとはいえ、こんな危険をおかしてまで商いをしなければならぬおばさん達も不幸だ。しかし、食べるものさえない社会。これほど暗く不幸なことはない。戦争をにくむとともに一日も早く経済を建て直し自由にみんながのびのびと生活できる社会を作らなければ・・・。子供心にもそんな決意をしたことを私は今もはっきり憶えている。
 さて、現在の小松島港は関西への便を徳島港に譲ってしまったため、ひっそりと静まりかえっている。しかし名物の「ちくわ」は今も健在で、竹の棒が入った正真正銘の「竹輪」は小松島を代表するおみやげ品として各地で販売されている。
 小松島市民の悩みは、かつては四国の東門として栄えたものの今はこれといった地場産業もなく、経済活動も緩慢で、立派なバイパスが開通したものの単に人々の通過点にすぎない存在へと市勢が地盤沈下していることであろう。もう一度、にぎわいを取り戻すのはどうすればよいか。柔軟な発想が待たれる。

 

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 随筆29 「関西で活躍する徳島県人

 中国と日本が一衣帯水の国であるように、関西と徳島は、まさに一衣帯水。経済的な交流はいうに及ばず、人的交流の面においても親子か親せきの関係にある。
 私は徳島県下をすみからすみまでくまなく歩いたが、どこの家庭を訪ねても関西に親せき、友人、知人がいる。とともにそうしたパイプを通して、関西での動向は、驚くべき速さで徳島県に入っている。地理的には海を隔てているものの、すでに情報の世界ではリアルタイムで関西圏となっている。
 東京の人とは背広でのお付き合いになるが、関西の人とならワイシャツのまま、ことによったら作業着でお付き合いできる。そんな気安さがある。私も関西の持つこういった庶民的な味わいが子供のころから好きだった。
 大阪には福島区に母の兄、住吉区に父の母が住んでいた。だから中学生になると、休みにはよく一人で出かけたものである。天保山の桟橋を渡るとそこには浪花の街である。岩おこしの山が店頭に並んでいる。「どうでっか。安いでっせ。買っとくなはれ」「おおきに。毎度」人なつこい関西弁が心をなごませてくれる。
 梅田駅前に向かい合って建っていた阪神と阪急百貨店、大阪城と日生球場、難波と千日前の角座そして通天閣。みんな懐かしい。一つ一つに子供のころからの思い出が刻まれている。そういえば住吉大社の太鼓橋で日の暮れるのも忘れるほど遊びに熱中してしまい、今は亡き祖母からこっぴどくしかられたこともあった。
 10年ほど前、母の兄である山野宅を訪ねる機会があった。子供のころ、何度も通った家なのに、付近の家並みがすっかり変わってしまってとうとう道に迷ってしまった経験がある。わずかに、福島小学校の隣だったことを思い出して、どうにかたどりつけのだが、子供のころと同じように「かずよっちゃん。よう来たなあ。はようあがりいなあ」とおばにニコニコ出迎えてもらったときは、さすがにほっとした。その夜は長男の厳君夫妻も駆けつけてくれ、久しぶりに大阪での思い出話に花を咲かせたのであった。
 現在、関西にある徳島県人会のメンバーは家族まで含めると100万人を超えるという。会長は県工の先輩である朝日多光さん。
 東洋紙業株式会社の名誉会長さんだが、90歳を越えてもますますお元気で徳島県人会の発展に尽力されている。 私は大阪で行う県人会の新年互例会には、よほどのことがない限り、毎年出席させていただいている。朝日多光さんの元気な姿におめにかかれることが楽しみだからである。 「あんたは学校の後輩じゃけん。格別うれしいですわ」といつもニコニコ語りかけて下さる。一昨年、「学校の創立百周年には必ず来てください」というと「わかった。いつや」と問われたので「七年先です」と答えたら「必ず行く。百歳までは約束できる」と呵々大笑された。

 

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 随筆30 「大坂峠と瀬戸内海 」

 阿波から讃岐への道は海沿いに走る国道11号を除くと、全てが阿讃山脈を越えていく山あいの道である。なかでもJR・高徳線の走る大坂峠の道は徳島市生まれの私には一番なじみ深い。
 初めてこの峠を越えたのは、小学生のころであろうか。遠足で高松の栗林公園に行ったときである。トンネルを何度かくぐり抜けた瞬間、鏡のように静かな青い海がそこにあった。瀬戸内海である。遠くに島々がかすんで見えた。近くに緑の松林。私は掛け軸やふすまによく描かれている絵を思い出していた。これこそまさしく日本の風景だと思った。
 歩いてこの峠を越えたのは高校生のときだった。セミしぐれのなかを汗をふきふき歩いた。山越しに見た瀬戸内海は、キラキラ輝いていた。
 最近は、自動車で越える。高松へは、ほとんどが鳴門回りの国道11号線だが、たまにこの峠を走ってみたくなるのだ。ことに新緑の季節はいい。若芽が全山をおおっている。それは、峠の道に見えかくれする農家の庭にまで広がっていて、若々しい生命の躍動を感じさせる。時おり、ウグイスの鳴き声なども聞こえて、この道には、今も自然がそのままの形でのこされている。
 曲がりくねった道を登りつめると、一度に視野が開ける。ここが大坂峠である。このへんには、どういうわけか高い木も少なく、なだらかな山々が手に取るように見渡せる。再び、曲がりくねった道を下ると、今度は瀬戸内海が視野一杯に飛び込んでくる。
 讃岐男に阿波女という言葉がある。たしかに阿波の女性は働き者である。朝から晩まで働きづくめでも、何一つぐちをいわない。そんなところから、讃岐では「嫁をもらうなら阿波の女性を」ということになったらしい。
 事実、この組み合わせは多く、ほとんどがうまくいっているようである。そんな花嫁さんもその多くがこの大坂峠を越えていったのであろう。昔は、ちょうちんに長持ち、そして花嫁は馬の背に揺られて、この峠を越えたことだろう。
 現在、大坂峠のある大麻山の頂上には、眉山と同様、灯が点されている。徳島県からも香川県からもよく見える。徳島から香川にお嫁に行った「阿波女」達は、あの灯の向こうにはふるさとがあるんだと思いを寄せていることだろう。あるいは「そんな感傷にひたる間なんてとても、」と讃岐でも働き者で通していらっしゃることだろうか。
 ところで「四国は一つ」とか「青い国・四国」などといわれて四国総体のイメージづくりが行われてきたにもかかわらず、いまだに四国は四国であり、いやまして四県がバラバラになり勝ちなのが実情のようである。
 確かに四県とも海の方に顔を向け、背中合わせにくっついているのが四国の地理的な姿である。関東の東京、関西の大阪、中京の名古屋、といった具合に、中心部に人口が集中した中核都市を持たないし、持てない地形だけに、四国の総合的な開発はなかなかに難しかろう。
 しかしものは考えようである。長所が短所となり、短所が長所となる発想もある。四県が独自性を発揮しながら、四国総体としての補完関係を結んでいくことはできるはずだ。大麻山の灯を見ながら、そんな四国の青写真を描いてみた。

 

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 随筆31 「渭東は仏壇と鏡台の町

 渭東は仏壇と鏡台の町。徳島市の地場産業といえば、まず木工業である。ことに福島橋を東に渡った福島・安宅・大和・住吉の各町、いわゆる「渭東地区」は木工業者が軒を並べていて、町全体に木の香と強い塗料のにおいが漂っていた。今はかなりの工場が郊外に移転したが、今もこの地で木工業を続けていらっしゃる方々は多い。
 この渭東木工の発祥をたずねてみるとなかなかに面白い。話は380年も昔にさかのぼるのだが、そのころ今の安宅町に阿波水軍の元締めである安宅役所が置かれた。この役所の作業場で軍船の造船や修理などが行われていたという。
 仕事場では火の用心のため、月に3回ほど木くずの整理をして、それを従業員の船大工達に払い下げた。このとき船大工たちが木くずのなかに木切れを入れて持ち帰ることを「目こぼし」といって、わざと見逃してくれたらしい。
 これを材料としてチリトリ・炭トリ・モロブタ・マナイタなどいわゆる「安宅(あたけ)物」と呼ばれた日用道具を作って売った。今でいうアルバイトであるが、徳島市史第一巻(徳島市史編さん室編)によるとこれが渭東木工の起源とされている。
 明治になると、木工業の技術は一段と向上し、「阿波鏡台」は大阪の問屋街でも高い評価を受けるまでになった。以後、大正、昭和を通じて、鏡台のほかタンスや建具、下駄の生産が渭東地区を中心に発展。太平洋戦争中には軍部の命令で軍需品の下請け工場となり、弾薬箱や航空機部品の製造にあたらされたこともあったが、戦後は、木地・杢(もく)張・塗装・仕上げ加工という分業を進め、機械の導入や資金繰りの合理化を図り、ことに仏壇の製造では、全国でも有数の生産地となっている。
 とはいうものの、家内労働力だけが頼りといった零細企業の多い木工業界は、景気の影響をモロに受ける。最近の長期にわたる景気不振にはどの事業所でも頭をかかえており、「木工はもはや斜陽産業。とわかっていても今さら商売がえもできないし、泣くに泣けん状態ですわ」という声が町にあふれている。
 昭和57年3月、この町に木工会館が完成した。ここでは@情報収集及び提供活動A塗装に重点を置いた試験、研究及び技術指導の二点に的を絞って、木工業界の要請に応えている。  私達もよく集会の会場として使用させていただいているが、展示されている見本の商品が時代とともに年々変わっていくことに気づく。
 木工業を取り巻く環境は依然としてまことに厳しいが、時代に即応する情報の収集と、時代を先取りしゆく創造力。それに、経営の体力が加われば、木工業界の前途も明るいものとなるに違いない。徳島の伝統的な地場産業の振興を祈らずにはいられない。

 

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 随筆32 「木材団地になった津田海岸

 津田の海岸といえば、海水浴を思い出す。徳島市内では一番よい遠浅の海岸だった。毎年、夏になると市民がどっと繰り出した。徳島市内からバスで行くと、今の昭和町あたりから一面に入浜式の塩田が開けていた。この塩田は後に効率のよい流下式塩田へと切り換わるのだが、広々とした入浜式塩田で、働く人の姿が白い大地に黒点を落としたように見えたのが、今も印象に残っている。
 津田の大橋を越えると、津田山の絶壁が屏風のようにそそり立っていた。今ではちょっとした小山の感さえするが、当時は、はるかに高い断崖のように思われたものである。
 古い津田の町を縫うようにしてバスは松原に向かう。潮騒が聞こえてくると心は躍った。海はどこまでも青く澄み切っていた。波も静かである。広い砂浜で貝ひろいに興じたこともあった。めざすは「まて貝」である。砂にポツンと穴があいている。その穴に塩を放り込んでしばらく待っていると、貝がピューッと飛び出してくる。それを手でつかむのである。子供の私達にもなんなくとれるので、つい夢中になって時の経つのも忘れてしまうのだった。
 海が埋め立てられて、海岸がなくなってしまった今は、子供達にそんな遊びのあったことも教えられない。木材団地となった今は、あちこちに作られた貯木場に大きな原木が浮かんでいる。ほとんどが外国から運んできた洋材である。その木を製材する工場が建ち並び、区画整備された広い道路には原木や製品を運搬する大型トラックがうなりをあげて走っている。
 昔から徳島県は優れた木材の産地であった。しかも都合のよいことに吉野川や那賀川、勝浦川など多くの河川がゆったりと流れる水の都でもあった。山奥の木材を伐採するとイカダに組んで川を流した。馬車や荷車の時代は河川が重要な木材の運搬路であったわけだ。水の流れがゆるやかになる岸べには製材工場が建ち、徳島の木工産業を育ててきた。
 ところで時代の進展とともに川には、治山治水とかんがい用水確保のためダムが建設された。やがてイカダは姿を消し、それにとって変わったのが陸上輸送のトラックである。さらに木材自身も県下で伐採される杉や桧にとって変わって、安い外材がどんどん輸入されることになった。こうした時代の進展に伴い、市内の河川沿いに点在していた製材工場が海岸に集められ、津田の木材団地の誕生となったのである。
 その着想は当時としてはなかなか良かったに違いない。製材工場の転出に伴い市内地はびっくりするほど静かになった。新町川や福島川なども貯木場がなくなった関係から浄化が一段と進むことにもなった。美しい津田の海岸がなくなった反面、こうした利点もあったのだ。それ故に多くの市民も木材団地の誕生を歓迎したと聞く。
 気になることは、現在の木材団地が長期にわたる不況に見舞われ続けていることだ。経済の再生を急がねばならない。活力と安心の日本、そして徳島にしたい。政治家の責任はいよいよ重い。

 

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 随筆33 「時代を写す徳島の顔、徳島駅 」

 JR・徳島駅に降り立つと、眉山の緑をバックに、ワシントンヤシがそそり立っている。いかにも南国情緒豊かなこの風景が私は好きだ。
 今も昔も徳島駅は徳島の顔である。ワシントンヤシは子供の頃からちっとも変わっていないが、その他は全てといってよいほど変わった。その時代を生きる徳島の姿をそのまま表現するのが顔だからそれは当然かも知れない。
 駅前にあった内町小学校は、かつての西の丸運動場跡地に移転、今は県下唯一の都市型百貨店が数多くの専門店とともに再開発ビルのなかで営業している。JRの徳島駅も県下一の高層ホテルや専門店が入居する総合ビルに生まれ変わっている。
 国鉄時代にはとても考えられなかったことだが、JRとなって以来、四国でも駅舎が次々に新築され、サービスも素晴らしくよくなった。私は国鉄を民営化するとき、衆議院の国鉄改革特別委員として、熱心に議論し、当時の野党のなかでは唯一公明党が賛成して法案を成立させたことを思い出す。あの時の判断が誤りではなかったことに強い誇りを感じている。
 今、徳島駅は1日中人々であふれかえっている。若い人達も多い。徳島から高松や岡山へ直行する特急便も増え、列車の旅もまことに快適となった。将来は、東京へ直行するブルートレインを徳島から出発させるのが私の夢だ。これは国鉄改革特別委員会で私が提案したものだが、JR四国の社内でも真剣に検討されていると聞き、実現する日を楽しみにしている。
 徳島駅前の商店街もにぎわいを見せている。最近、駅舎に棟続きの分譲マンションが完成したが、入居希望者が殺到して完成前から完売だったという。1階は商店、2階以上は住居というアイデアが当たったのだろう。
 新町川の周辺でも分譲マンションは人気を呼んでいる。都心居住は国の政策でもあり、建築基準の規制緩和や融資制度なども展開されている。
 が、それよりも何よりも、生まれ育った土地で生活したい、老後を送りたいと希望するのは人間の自然な思いでもある。都心の土地があまりにも高騰化したため、やむなく郊外に出ていった人々が、子供達も大きくなった今、夫婦だけで便利な都心に住みたいと帰ってくる。そんな気配を感じるのは私だけだろうか。
 東新町の商店街は最近何十年ぶりかでアーケードを全面新装した。明るい日光の差し込む通りには、外国の商品を専門にしたお店が軒を並べている。
 西新町でも再開発が議論されているが、1階は商店街、2階以上は住宅にしたらとの意見もあるようだ。都心居住の先取りとして面白いアイデアかもしれない。

 

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 随筆34 「南海に浮かぶ伊島の心暖かき人々

 徳島県の東端・蒲生田岬のその先にポツンと浮かんでいるのがササユリで知られる伊島である。戸数は約百戸。ほとんどが漁師である。太平洋の黒潮を真っ正面から受けるこの島では、港の近辺に家々が集まり、土地にへばりつくように軒を寄せ合っている。
 私がこの島を初めて訪問したのは、昭和55年6月、衆議院の選挙に初出馬した折りのことである。解散の日に出馬を決意するというあわただしい選挙戦であった。投票日まで40日しかない。名もない一介の青年がいきなり衆議院の選挙に出たのだから、世間の常識からはとても考えられないことだったに違いない。テレビのビデオ撮りから、遊説、街頭演説、立会演説と、生まれて初めて経験することばかりであった。
 そんななかで一つだけ頼りになることがあった。体力である。37歳の私には、これだけが選挙戦を戦い抜く唯一の取り得だった。厳しい選挙戦だけに遊説のスケジュールは過酷を極めた。20日間の選挙期間中、自宅で休めるのはせいぜい2、3日。あとは全部、山深い上勝町や、木屋平村、東祖谷山村、由岐町伊座利、宍喰町などでの宿泊である。それも平均4、5時間、ひどいときには2時間の睡眠時間しか許されなかった。
 伊島に行った日のスケジュールは、朝5時阿南市のホテルを出発、中林の漁港から支持者の方が用意してくださった高速船で伊島へ渡り、7時から7時30分まで島内を遊説、その後、船で椿泊へ。阿南市を回ったあと丹生谷へ。木頭村の北川で折り返し、個人演説会が3会場と立会演説会一会場に出席し、川口から赤松を経て日和佐町、由岐町伊座利に至るという走行距離にして約400キロメートルのコースだったと記憶している。
 青い海の向こうに浮かぶ伊島は、戸数が少ないせいもあってか、全県一区という広い選挙区を回らなければならない衆議院選挙になると、ともすれば遊説コースから外されがちである。  事実、選挙期間中に衆議院の候補者が島を訪問したことは一度もないという話も聞いた。それだけに“ぜひ行きたい”と私は無理矢理頼み込んだものだった。その希望が実現して目の前に伊島の岸壁が見えてきたとき、それだけで私の心はときめいた。
 岸壁にはすでに支持者の方々が待ち構えていてくださった。その方々の案内で島内をくまなく歩く。標識とハンドマイクのあとに候補者のタスキがけの姿。桃太郎さながらの風景に島の人達は大きな声援の拍手を送ってくださった。
 お年寄りの方々が家から飛び出して来てくださり、私のタスキをさすりながら“本当に候補者本人ですか”と何度も何度も念を押されることもあった。選挙期間中はいつもポスターだけで、候補者本人を見たことがないという人々の節くれだった手を堅く握りしめながら、私は心から決意した。“政治の光はどこの地域、どこの人々にもまんべんなく行き届かなければならない。力の強い方、数の多い方へ押し流されている今の政治は根本的に間違っている。政治という巨大な権力を民衆の側に取り戻すのが、公明党の使命であり、私自身の責務である”―そのために、この一生をささげるのは男児の本懐であるという熱い決意をである。
 伊島には、その後も5度ばかりおじゃまさせていただいた。  衆議院議員に二期目の当選をした翌年の昭和62年12月24日、私は伊島で移動市民相談を行い、島の人達と夜を徹して語り合ったことがある。
 このとき中学校の新築、保育所の整備、診療所への医師派遣などの陳情を受けたが、のちに全て実現し島の人達に喜んでいただいたのは今も記憶に新しい。
 はるかに遠い南の海に浮かぶ伊島の皆さんの御健在を祈る。

 

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 随筆35 「徳工機械科と中西芳男先生

 質実剛健は、私の学んだ徳島工業高校の当時の校風でもあった。工業立国の時代に、学力検査は勿論、身体検査も受けて、入学してきた生徒は、心身共に優れ、機械科は特に難関であった。
 昭和37年3月に卒業した私達50名は、機械科の第14回卒業生である。どのクラスメートも学力優秀で、精神的にも一本筋の通った重厚さを備えた人ばかりである。
 残念にもただ一人早くして世を去った惜しむべき友がいる。高校時代は陸上部のホープとして、また卒業後は新日鉄の中堅社員として、将来を嘱望されていた大島博至君が、昭和55年11月19日出張先のユーゴスラビアで、思いがけない交通事故で殉職された。この突然の出来事は私達を深い悲しみに沈ませた。
 北九州市に住んでおられる奥様は、子供達のために力強く生き抜いてまいりますと、気丈夫に語っておられたが、幸い新日鉄に就職も決定し、再出発されることになった。鳴門市に住んでおられるご両親や肉親の方々にもお会いしたが、ご家族は悲しみを胸に秘めて、同級生の私達に、博至の分まで頑張って下さいと、逆に励まされるほどであった。
 ご家族の皆様の悲しみはいかばかりであったろうか。その悲しみを乗り越え、私達のわずかばかりの心遣いにも、心からのねぎらいを寄せて下さった。ご一族の強い信念に裏打ちされた暖かい心に、私達はまたしても泣かされたものであった。
  そんなことがあった翌年、昭和56年7月3日、私達は有馬温泉の兵衛・向陽閣で同窓会を行った。おりから東京都議選の真っ最中で、私も東京へ応援に行った帰路、立ち寄った。
 懐かしい顔が全国各地から集まってきた。石山康弘君、櫟原健二君、芋谷暢重君、小川功君、河村晴美君、北井勝好君、幸田賢一君、佐藤憲司君、妹尾安修君、田村大三郎君、新見務君、西英勝君、山口真君ら壮々たるメンバーである。
 十年一昔と言うから、卒業してもう二昔にもなる。それでも会った瞬間、高校時代の面影がほうふつとする。夕方の6時から始まった同窓会は深夜になっても話の途切れることがない。それぞれに話したいことが山ほどあるのだ。
 大きく言えば、日本の工業の発展を支え、経済の高度成長期に青春を投げ打って働いてきた自負がある。それでなくても働き盛りの38歳。職場のこと家庭のこと全てにエネルギーが満ちあふれている年齢である。愚痴というものがない。何事にも挑戦していこうという気概にあふれた話は、いつ聞いても気持ちのよいものである。
 翌朝は、ポートピアの見学。高校時代にかえったかのような雰囲気で行楽の一日を楽しんだものだった。
 ところで同窓生を語るとき、忘れられないのは、私達を3年間、担任して下さった中西芳男先生である。先生は苦学の人で、両親を早く亡くされたせいか、何事にも心暖かく接してくれる人であった。頭脳は明晰で、数学(代数)と機械製図、原動機、そして自動制御を教わったが、サラ回しやコマの綱渡りの理論解析をされるなど、ユニークな仕事ぶりが新聞紙上をにぎわしたこともあった。
 いつお会いしても、昔と同じ姿でちっとも年をとられていない不思議な方である。庶民的で気さくな性格は、県工の多くの同窓生から慕われている。そして、私達50名のメンバーの消息にくわしいのには感心させられる。
 同窓会はその後も名古屋、鳴門、伊豆で行った。伊豆の時も先生にお越しいただいたが、お世話して下さった旅館の方々が、「だれが先生で、だれが生徒か、全くわかりませんね。」と言っていた。ふさふさした黒髪にメガネのよく似合う万年青年なのである。

 

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 随筆36 「徳島大学に法文学部を

 キャンパスを市民に開放した大学祭が今年も行われた。私も例年、出席させていただいているが、常々思うことは徳島大学に法文学部あるいは政経学部をぜひ開設してほしいということである。
 現在の徳島大学は、医学部、薬学部、歯学部、工学部、総合科学学部があるが、いまだに旧医専、工専、師範学校の延長上にあり総合大学というものの、寄り合い所帯の感が強い。  大学祭になるとこの色彩が一段と顕著になる。校舎が常三島と蔵本に分かれているせいもあるが、バラバラの感がして総合的な迫力に欠ける。展示物や催し物の一つ一つにも、世の中の文化や文明に対する全体観にたった問いかけといったものが少なく、実利的、末梢的、部分的かつ興味本位の出し物が散乱している感をぬぐいきれない。
 この大学祭の地盤沈下は全国の大学に共通している現象のようであるが、現代学生気質を象徴する出来事でもあろう。大学祭の期間中は授業が行われないので、この期間を利用して帰省したり小旅行を楽しむ学生が8割を超えるという。大学祭に参加するのはごく一部の人達であり、“人生いかに生きるべきか”など真面目な議論をすればするほど白けた雰囲気になるとも語っていた。
 かつて大学は時代の思潮にどこよりも敏感に反応し、民衆を一歩リードしゆく新文化建設の揺籃の地でもあった。ところが現代の技術文明の社会にあっては、大学は実利性の侍女になり下がってしまい、未来を担う指導者を育成するという役割りは衰退してしまっている。少々辛口だがそんな感を一段と深くするのである。
 現代の大学教育が実利主義に陥ってしまった結果、二つの大きな弊害がもたらされていると識者は指摘している。すなわち、その一つは、学問が政治や経済の道具と化して、その本来もつべき主体性、したがって尊厳性を失ってしまったこと。もう一つは、実利的な知識や技術にのみ価値が認められるために、そうした学問をする人々が知識や技術の奴隷に成り下がってしまった、ということである。
 こうした指摘が現在の徳島大学に符号することを私は恐れる。それではとても視界ゼロの新世紀を切り開いていく活力ある人材を輩出することは不可能であるからだ。
 そのためにも、この際、徳島大学に総合科学部を改組して法文学部を新設することを提案したい。総合大学の要の存在として、大学の再生と復権をお願いしたいのである。私はつねづね、徳島県の未来構想は教育立県にあるべきだと主張してきた。今もこの気持ちは変わらないし、ますますその確信を深めている。
 日本の地図を広げてみると、日本の大都市というのは東京ー大阪ー福岡を結ぶ東海道ならびに山陽道の一本の線上に集中している。新幹線に代表される交通や情報のネットワークをはじめ人口も政治も経済も文化もいっさいがこの線上に集まっているのである。
 徳島はこの線上からやや離れたところにあって、東京も名古屋も大阪も広島も福岡も全部が見渡せるポジションを占めている。これが地の利というものであろう。
 きょう明日のことに全神経を集中しなければならない大都会の喧噪の中で、未来を展望することは至難のことである。まして未来を担う人材の育成に専念するとなるとよほど時間的にも空間的にも余裕がなければならない。そのゆとりが徳島にはある。これこそ日本における徳島県の存在意義ではなかろうか。わが徳島から、次の時代を担いゆく骨格太き人材を各地に送り出す─考えただけで夢のふくらむプランではなかろうか。

 

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 随筆37 「強者どもの夢の跡、勝瑞城

 私の本籍地は藍住町の勝瑞字幸島。決まって「いいところですね」といわれる。なかには「勝利の瑞相がする幸せの島ですね」などと注釈されることもある。
 たしかに勝瑞という地名にはそんないわれがあるらしい。私が衆議院選挙に初出馬したおり、先祖代々、この地に住んでおられる中川のおじいちゃんが、檄文を届けてくださったことがある。和紙に墨も黒々と達筆でしたためられたその文章は、はじめに勝瑞の縁起を示し、かつて天下を征したこの地から今まさに、現代の英雄が出でんとしている。という意味であったように記憶している。
 おじいちゃんの名前は中川清さん。80歳を越えても、健康そのもの。毎日自転車で走り回っていた。地元ではなかなかの名士で交際範囲がべらぼうに広い。家は私の家のすぐ隣であった。私達がここに新築したときも、待ち構えていたように訪問してくださり、丹精込めて育ててきた植木をわざわざご自分で掘り起こして運んできてくださった。お陰様で、わが家では門から庭まで全て「ここはこの木、こっちはこれ」と中川のおじいちゃんが植えてくださった木々の緑でうまっている。中川のおじいちゃんは残念ながら逝去されたが、植木を見るたびに思い出す。
 さて勝瑞の縁起であるが、その昔、勝利を願う武将の心を表現して名づけられたものと伝えられている。勝瑞は鎌倉時代の初期に小笠原氏の守護所が置かれた。建武二年(1335年)には細川和氏が阿波守となり後にその職を弟頼春に譲り、頼春の子頼之もまたその弟詮春に譲り、ここに阿波の守護所として勝瑞城(勝瑞阿波屋形)ができあがったという。
 その子孫、九代目の持隆が家臣の三好義賢に謀殺されたのもこの地で、以後は三好氏の居城となり、西国三十六カ国の守護職としてこの勝瑞城で天下を制したというのである。
 徳島の中心はその後、長宗我部元親の手で一宮城へ移り、さらに蜂須賀家政の入国によって渭津の徳島城へと移るのであるが、三好氏が長宗我部之親に敗退する天正10年(1582年)までの約250年間は勝瑞城が徳島の中心として栄え続けてきたわけである。
 今、勝瑞城跡を訪ねると、まさしく、強者どもの夢の跡といった寂しい風情で、往時の面影は全く見られない。しかしながら史実は史実であり、私達はそんな歴史の刻まれたふるさとを大切にしたいと思う。

 確かに四国第一といわれる徳島平野の中心に位置する勝瑞は肥沃な土地に恵まれ、生産物も豊富である。交通の便もよく、将来の発展が望まれる景勝の地といえよう。先の先の話だが鳴門の本四架橋に、四国新幹線が走るとすれば新徳島駅は、このへんになるかも知れない。もはや人口過密の徳島市内に新幹線を通すことはかなりの無理を伴うからである。
 そうした意味からいえば、現在の勝瑞を中心とする藍住町、北島町、松茂町で新徳島市が誕生してもよい。あまりに手前味噌としかられるかも知れないが、地方分権をより確かにするためにも町村合併は進めなければならない。
 かつて県下の中心として栄えた勝瑞が、時は流れ再び巡り来て徳島の中心地になる。そんな期待にどうこたえていくか。いっさいはこれからの取り組みにかかっているといってよい。

 

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 随筆38 「明治の青年、伊座利の大地鉄蔵さん

 眼下に太平洋を見はるかす由岐町伊座利の海は、徳島の海岸線には珍しく男性的な力感にあふれている。国道55号線を阿南市福井町から左に折れトンネルをくぐり急な山道を上りつめると、視界がパッと開ける。その海が伊座利の海だ。緑の松が生い茂る断崖絶壁の向こうに果てしなく青い海が広がっている。その雄大な景観は、一介の青年にも広大な夢とロマンをその心に湧き立たさずにはおかない。そんな迫力がこの海にはある。
 この海を語るとき、私は一人の人物を語らずにはおられない。その人の名は大地鉄蔵さん。明治31年7月3日生まれ。80歳をはるかに越えてもかくしゃくたる気概で活躍されていた。 私が初めて鉄蔵さんにお会いしたのは、衆議院選挙に初出馬したおりである。朝の5時ごろであったろうか。地方遊説で伊座利のお水荘に宿泊していた私を訪ねてきてくださった方があった。玄関に出てみると、背広に身をかため、少し大きめの革靴にステッキをつかれた老紳士がていねいに会釈をされた。それが鉄蔵さんであった。
 「朝食はおすみになりましたか。このへんは私が御案内いたしますから」と意気軒高である。前日、約400キロを走行、伊島から始まり、木頭村から赤松、日和佐へ抜け、深夜投宿した私を「もう着いたか、もう着いたか」と何度もホテルに確認されたうえ、朝一番で駆けつけてくださったという。
 選挙が終わって、その後も二度ばかり、鉄蔵さんにお会いする機会があった。いつお会いしても血色のよい顔をほころばせながら「さあ!行きましょう」と伊座利や阿部の支持者宅を案内してくださる。例の背広にステッキ姿で、その健脚ぶりには、孫の年齢である私でさえまいるほどである。  
4時間ぐらいぶっ通しで歩いても、汗一つかかない。呼吸一つ乱れない。そんな姿に私は明治の青年の気骨を見る思いがした。
 鉄蔵さんは日和佐町の農家に生まれた。青雲の志を抱いて北海道は網走に近い女満別へ。無一文から土地を購入して農業を開拓。やがて結婚し男三人女二人の子供達とともにハルピンに集団移住する。ハルピンの冬は厳しく、ドアの金具に素手でさわると皮がむけるほどだったという。
 やがて終戦。ソ連兵がハルピンの開拓団にも略奪にやってきた。3,000人の開拓団の生命を守るため食うか食われるかの瀬戸際の中で生き抜いてきた。ソ連兵の捕虜になったり銃殺されたりで、3,000人いた開拓団のうち無事、内地に帰ったのは2,000人にも満たなかったという。
 それでも鉄蔵さんの家族7人はなんとか生まれ故郷の日和佐にたどりつき、伊座利の山に開拓団として入植した。自分の食糧を全部育ち盛りの子供達に与えた妻は栄養失調で寝たっきり。
そんななか丸太を倒して家を建て、山を焼いて土壌を作る。一年間は何の作物もとれない。やがて妻も健康を回復し、さつまいもが主食という生活ながらも伐採の仕事で生計が立てられるようになった。
 その後、伊座利の開拓団で入植した30世帯はほとんどが離農し、残ったのは鉄蔵さんを含むわずか三所帯。「苦労しましたね」と尋ねると「いやあ、私も男だから、好きなようにして波乱万丈の人生を生きてきました。この人生結構、面白かったですよ」とおっしゃる。子供達も全員結婚し、孫が12人、ひ孫が7人。今はもっと増えているかも知れない。面倒みのよい鉄蔵さんは、当時、伊座利や阿部の町でも人気抜群。鉄蔵さんの、姿を見かけると若い娘さんまで走り寄って来て、「おじいちゃん、私の子供です」と赤ん坊を見せにくるほどだった。  今、伊座利を訪れると太平洋を見はらす景勝の地にお墓が立っている。81歳で亡くなった鉄蔵さんの妻・タキ子さんの墓である。「妻には苦労のかけ通しでした。せめて太平洋の見えるこの地でゆっくり休ませてやりたいんです」そう語っていた鉄蔵さんも、今はこの墓で眠っている。男のロマンを追って北海道へ、そしてハルピンへと渡った武骨な明治の青年は、ともに苦労を分かち合ってきた最愛の伴侶とともに、あれこれ過ぎ去った思い出を静かに語り合っていることだろう。

 

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 随筆39 「藍住町歴史館になった奥村家

 青は藍より出でて藍より青し。  藍なしでは徳島の歴史は語れない。私が衆議院選挙に当選した直後、初当選させていただいた御挨拶に奥村家を訪問したことがある。
 芝生の敷き詰められた広い前庭から壮大な奥村家藍屋敷が、夕日に輝いて見えた。ここだけは歴史の歯車が止まっていて、江戸時代に逆転したかのような錯覚をおぼえた。
 大きな門を抜けると広い中庭があり、その向こうに母屋があった。「奥村武夫」と歴史を刻む表札がかかっていた。
 声をかけると、大きな返事がして、母屋の隣の離れから「よく来てくださいました。どうぞ、どうぞ。お待ちしていました。ゆっくりしていって下さい」と笑顔で迎えて下さった。その人が、奥村武夫さんだった。
 奥様もまじえて、話がはずんだ。藍の歴史はそのまま徳島の歴史だった。もうお年も80歳を越えていたと思われるが、子供のころの話を昨日のように生き生きと語って下さった。
 奥村家は藍商人のなかでも豪商と呼ばれ、5本の指に入る商いを京・大阪はもちろん、江戸や長崎などの日本全国で展開されていた。奥村家の商人は全国に飛び、その時代のその地域の経済状況を手紙で奥村家に送っている。今もその古文書は大切に保管されていて、時間をかけて調査を進めていけば、当時の日本各地の状況を知る貴重な資料になる。そんな話をあとで郷土史家として奥村家の調査をした三好昭一郎氏にうかがったことがある。
 それはさておき、奥村武夫さんは長い話のあと、ぽつりと言われた。「こうした歴史のある屋敷を維持していくのは、結構、大変なんですよ」私は瞬間的に思った。「この藍屋敷は奥村家個人の財産であるとともに徳島県の財産でもあるはず。これは何とかしなければ」と。
 その後、私は衆議院の予算委員会で文化財を保護する観点から奥村家の保存をとりあげた。それがきっかけとなり文化庁の方々が調査にこられ「国の文化財となる前に県の文化財としてまず指定を」ということで今度は県にお願いして、県の文化財に指定していただくことができた。  奥村さんは喜ばれ、町長さんとも相談された結果、藍屋敷は藍住町に寄贈し、藍住町の歴史館「藍の館」として整備していくことになった。オープンのテープカットには私も御招待をいただいたが、「藍の館」の前庭では、奥村家の人々が、現代風に工夫された藍の商品の数々を店頭に並べておられた。
 藍屋敷とともに藍の商品も現代に蘇生した。それはうれしい光景だった。現在の「藍の館」は観光バスのコースともなり、観光客がひきもきらない。若い人達にも藍のよさが見直されているようでうれしい限りだ。

 

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 随筆40 「森宮九十男先生と岸田義市先生

 加茂名を語るとき、忘れることができないのは森宮九十男先生と岸田義市先生である。両先生とも加茂名での奉職が長く、森宮先生は加茂名中学校の校長を最後に定年退職し、私立の名門・生光小学校の校長としても活躍された。岸田先生もまた加茂名小学校の校長を歴任され、助任小学校校長を最後に定年退職し、徳島市中央公民館に奉職されていたが、すでに故人になられた。
 私がお世話になったのは、もう40年前の加茂名中学校の生徒だったころの話であるが、森宮先生は理科の先生、岸田先生は社会科の先生だった。
 森宮先生には3年生のとき担任もしていただいたが、物事のけじめを大事にされる先生だった。授業は厳格で、よそ見でもしようものなら、容赦なく怒鳴りつけられたばかりか、授業の終わるまで廊下に立たされるほどであった。反面、一人一人をじつに細かいところまで知っておられ、家庭の事情なども全て把握されていた。
 先生にはよく昆虫採集や植物採集につれて行っていただいたが、小さな虫や名もない草に至るまでよく知っておられた。まぎらわしいものは一つ一つ図鑑を引いて調べ教えてくれたものだった。とにかく研究熱心で、何事もいいかげんには放しておかない性格であった。
 卒業後も毎年、年賀状と暑中見舞いをいただいた。それは私が高校を卒業して県外に出たあともずっと続いた。私も筆まめな方であるが、どういうわけか、つい返事を出しそびれてしまったことがある。先生はそのこともよく憶えておられ、後日、私がふるさとに帰ったとき、厳しくしかられたことがある。まさしく厳父の愛のムチのように私には思われ、そこまで思っていただけることに心から感謝したものである。  先生は私の両親にもずっと手紙を書いてくださり、激励を続けてくださったという。20数年間にわたる先生の年賀状を両親から見せてもらったとき、私はいい知れぬ感動をおぼえたものである。
 岸田先生には、誰がつけたのか“江戸っ子”というニックネームがあった。性格が明けっぴろげで、気前がよく、生徒に抜群の人気があった。
 授業もまた独特のムードがあり、教科書などはそっちのけで、授業が始まるや否や、黒板に凄い勢いで文章を綴っていく。私達はそれをノートするのに無我夢中。気がついてみると授業が終わっていたということがよくあった。あとでノートを読んでみると、教科書にのっていたことがじつに要領よくまとめられていることに感心したものであった。
 先生の授業を通して、私は、物事の本質を理解し、ポイントをおさえるというものの見方、考え方の基本を知らず知らずのうちに教わったような気持ちがする。先生はなかなかの達筆であった。当時、黒板に書き綴られたものと同じく流れるような書体で綴られた手紙が、今も私の手元にあるが、拝見するたびに懐かしさが込み上げてくる。衆議院議員に当選したあと、先生は国会まで激励に来て下さったことがある。議員宿舎の近くの「お好み焼き屋さん」で好きなお酒を飲みながら懇談して下さった先生。まことに庶民的な方であった。私は十分なおもてなしのできなかったことを今も後悔している。

 

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 随筆41 「徳島城に天守閣を

 どこの国どこの地域にも、その国、その地域ならではの”顔”がある。象徴といおうか、味といおうか、お国ぶりを濃縮した形で示してくれる建造物が必ずあるものだ。  中国なら万里の長城。かつて毛沢東が「長城に至らずんば汝好漢にあらず」と歌ったこの長城に私も訪れたことがあるが、まさに百聞は一見にしかずで、中国民衆の母なる大地の如き悠久さに圧倒される思いがした。月から見える地上最大の建造物といわれる長城を一つ一つレンガを重ねて手づくりで作っていくというこの構想の雄大さは、一体何と表現すればよいのだろうか。まして、実際に作りあげた人々の血と汗と涙の労苦を何と表現すればよいのか。私は言葉を失ったものである。
 この悠久さにははるかに及ばないが、日本にも日本でなければ見られない建造物がある。その建造物の代表が城であろう。城はご承知の通り封建時代の権力の象徴でもあるが、大阪城には大阪城のよさが姫路城には姫路城の個性がある。幸い私は15年間の記者生活を通して、日本全国を訪問させていただいたが、熊本城や松本城そして名古屋城など名城といわれる各地の城の姿は今も記憶に鮮明である。
 さて、そうした認識の上に立ってわが徳島城を眺めてみると、少々恥ずかしくなる。徳島城は蜂須賀氏が270年にわたって阿淡両国二十五万七千五百石の土地と人民を支配してきた拠点である。今は、かつての面影をしのぶものとしては石垣と堀、そして藩主の庭園だった旧徳島城表御殿庭園くらいのものである。
 天守閣を再現する計画があると聞くが、大いに結構。徳島の顔となるにふさわしいものをぜひお願いしたいものである。とともに、ぜひ行ってもらいたいことは、城山を含む徳島公園全域の総合的な再開発である。
 市では中央公園として整備を進めてきたが、いささか総合的な観点からの取り組みが欠如しているように思う。私は金沢に6年間住み、しばしば兼六園に遊んだ。四季のおりおりに見せる兼六園の情緒は、さすがに百万石文化の奥行きの深さを感じさせるものがあったが、市民がこの公園を何よりの誇りとして、チリ一つ落とさぬほど心を配っている姿に深く感動したことを憶えている。
 とともに兼六園の周囲には美術館や能楽堂などが静かなたたずまいと調和するかのように配置されており、公園そのものが総合的な文化の森として機能していることにも感心したものである。
 「徳島城博物館」が完成し、いつでも、蜂須賀時代に思いをはせることができるのはうれしい。もっとうれしいのは、徳島市出身の篤志家が私財でプレゼントして下さった「鷲の門」である。
 阿波踊りの季節となると、この門の前で人々は乱舞する。それは庶民の喜びの表現でもある。

 

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 随筆42 「剣山山頂から見たふるさとの山河

 私が剣山に初めて登ったのは中学3年生の夏休みであった。級友の粟飯原清治君ら3人で出かけたのだが、運動靴にナップザック一つという軽装だった。当時の私は山といえば眉山を連想するくらいで、剣山がどれほど高い山であるか、想像もできなかった。  標高1955メートル。県下で一番高い山であるということは知っていた。その山に登るというだけで心はずむものがあった。蔵本駅から汽車で穴吹駅へ。そこからバスで木屋平村に入り、山道を4時間くらい歩いたように思う。
 とにかく急な山道だった。四ッんばいになって登らねばならないような岩場もあった。あえぎあえぎ登りつめると急に視野が開け、熊笹の茂る尾根道に出た。稜線を渡る風が汗の流れる膚に心地よかった。立ったまま枯れつきた古木がそこかしこに白い地膚を見せていた。
 頂上は、熊笹が敷き詰められたような大平原だった。周囲360度、見渡す限り、山また山の大海原である。屏風のようにそそりたつ山々の間を深い渓谷が走る。その渓谷沿いに白く光るのは、点在する民家なのであろうか。まさしく四国は山また山の国であり、この山また山の大自然をわが天地として、たくましく生きゆくわが徳島県人はなんと幸せなことか。そんな気持ちが湧いてくる光景だった。今もなおその眺望は鮮明に脳裏に焼きついている。
 剣山登頂を契機に山に魅せられた私は、その後、北アルプスの穂高や乗鞍をはじめ白馬や浅間などにも登ったが、最も印象に残ったのは富山県の立山である。立山へは黒部から宇奈月へ入り、いわゆる黒部・立山アルペンルートで弥陀ヶ原高原へ。初夏というのにバスの背をはるかに越える積雪が残っている。山荘風の弥陀ヶ原ホテルから眺めた眺望がまたすばらしいものだった。はるかかなたに加賀の白山がそびえ立ち、一面に白雪の大平原が広がっていた。この雄大な景観が今ではサンダルばきで見られるようになった。
 観光ルートの開発によって、秘境が秘境でなくなり、ごく一部の人々しか見られなかった景観が、だれにでも楽しめるようになったことは確かに一つの進歩であろう。しかし、それによって失ったものも大きいことも知らなければならない。すでに立山では、名物だった天然記念物のライチョウが絶滅の危機にさらされている。もともと高山にしか生息しないライチョウは無菌状態に近い環境の中で一生を過ごしてきただけに、菌に対する抵抗力が極度に弱い。その体を登山者達の食べ残す食料を通して、入った雑菌がむしばんでいるというのだ。
 子供を守るために、みずからが傷を負っているかのように見せて、敵の注意を引きつけるというこの悲しくも愛らしい母鳥達が、人間のまき散らす残飯によって生命を絶たれようとしているのだ。まことに残酷なことを人間はしているといわざるをえない。
 わが剣山も最近では、道が整備され、リフトを活用すれば頂上近くまで簡単に登れるようになっている。私も家族で登ったことがあるが、昔と比べると“こんな深山にまで開発が進んだのか”と眉をひそめた。それでも頂上からの眺めは昔と変わらず、ジロウギュウや三嶺をはじめふるさとの山河を目のあたりにした感動はひとしおのものがあった。子供達の心にも強く焼き付いたに違いない。自然保護か開発かの論議はなかなかむつかしいものであるが、この大自然は人間だけの私有物ではないことに思いを至す心暖かな視点の確立を忘れてはならない。

 

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 随筆43 「“ミナミガタ”の心暖かき人々

 行けども行けども山また山が続く。那賀川沿いの国道195号を上ると、丹生谷の町が数珠つなぎにつながっている。阿南市から鷲敷町、相生町、上那賀町、木沢村、そして木頭村はもう徳島県の果て。四っ足トンネルを抜けると高知県である。
 この道を私はもう何百回走ったことだろうか。道路沿いに展開される山里の風景は、私にとってもはや馴染み深いものとなっている。
 阿波は古くから“キタガタ”と“ミナミガタ”に分けられる。吉野川北岸から西にかけてが一般に“キタガタ”と呼ばれる。「阿波のキタガタ起き上がりこぼし。寝たと思うたらもう起きた」などといわれるように、総じて“キタガタ”の人々は働き者だ。
 この働き者というのも、実は働かなくては食っていけないという土地の貧しさから来ているもので“キタガタ”の人はへらこいなどといわれるように利に敏い一面もある。厳しい環境のもとで必然的に生まれた性格といえよう。
 一方、“ミナミガタ”といわれるのは、那賀川以南で、温暖な風土と山海の幸に恵まれているせいか、どことなくのんびりしていて人柄も丸い。
 ともかく抜けるような青空である。小鳥のさえずる声すら、どことなく愛嬌がある。畔道を歩くと、見知らぬ村人までが会釈を返してくれる。走り寄ってきて「どこまで行きよるんで」と丁寧に道まで教えてくれる人もいる。田植えの手を一休みしているグループのなかに入ると「まあ、一杯やらんで」とお茶やお菓子が出て青空座談会が始まる。
 私は青い空と緑の大地に包まれた大自然のなかで年配の方々と語り合うのが大好きだ。木頭村の一番奥にある北川で81歳になるおばあちゃんから聞いた話が面白かった。
 この村にお嫁に来たのは14歳の春だったという。隣の村から馬の背にゆられて、峠を越えてきた。向こうの方に紋付を着た男の人が4・5人いる。「どれが私の婿さんじゃろうか。」親が決めた婚礼である。婿さんに会うのはその日が初めてでどの人か皆目見当もつかない。「一番、不細工な人が私の亭主になる人でしたわ」おばあちゃんはカラカラ笑った。
 その主人との間に9人のこどもができた。「私しゃ元気だったもんで、ワラ敷いて、全部一人で産み落としましたわ」。馬や牛の子供じゃああるまいし、人間様の子供の話である。
 今の若い女性が聞けば、卒倒するような話だが、おばあちゃんは、いかにも楽しげに語ってくれた。主人は早死にし、9人の子供はおばあちゃん一人の手で育てあげたという。「御主人の名前は何ちゅうたんですか」と訪ねると「あんまり古い話で、忘れてしもうた」とおばあちゃんは私を煙に巻いてしまい、またしてもカラカラ笑ってばかりいる。
 信じられないほど、大らかな話である。“ミナミガタ”の人はのんびりしていると聞いたが、ここまで来ると人生もまた楽しいものである。
 ところで現実の問題となるとこの地方も厳しいものを抱えている。まず第一が林業の不振だ。木頭杉で知られるこの地には今も製材工場が、多いがどこも閑古鳥が鳴いている。たまに外材を満載したトラックが山を上ってくる。それを山の中で加工して再び海に戻す。そんな皮肉な操業も外材が丸太で輸入できなくなってきた現在では、すたれる一方である。
 長びく景気不振の中にあって、土地の人々はこんな地場産業を思いついた。間伐材というのがある。捨てどころに困っていたこの間伐材を生木のまま接着し、魚のトロ箱を作ったのである。これが飛ぶように売れた。大手の会社からも注文が殺到した。
 一見、のんびり見える土地の人々だが、その思考はなかなかに柔軟でしたたかでもある。最近は林業に代わる地場産業としてユズの栽培も盛んだ。集荷用のモノレールまでついた立派なユズ畑を私も見学させていただいたが、ミカンやスダチが生産過剰なのに比べ、ユズの前途には明るさがある。
 ともあれ、大らかななかにも、進取の気風に富んだ丹生谷の人々が私は大好きである。

 

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 随筆44 「白雪の中に緑のエンドウ

 南国・徳島には珍しい大雪だった。昭和56年1月のことである。私は町会議員の多田勝美さんとともに阿波町の支持者宅を年始のあいさつに駆け回っていた。
 一面の銀世界である。野も山も新雪に色どられ、すがすがしい正月であった。私は新聞記者の時代に北陸の金沢で六年間を過ごし、雪には慣れているものの、暖かいふるさとの地で見る一面の銀世界はやはり格別の味わいがあった。
 風が冷たい。オーバーのエリを立てながら田んぼ道を歩いていると、真っ白な世界に、規則正しい緑の点が続いていた。「何だろうか」。近寄ってみると、それは小さくて柔らかな芽であった。雪を割って顔を出したその若い緑の芽は、強い風に吹き飛ばされそうになりながらも、大地にへばりつくように根を張っていた。 「遠藤さん。これはエンドウ豆の芽ですよ」私と一緒にのぞき込むようにして多田さんが教えてくれた。阿波町はエンドウの特産地である。私が初めて衆議院の選挙に出たころも、エンドウの最盛期だった。支持者の皆さんが「ソラ豆じゃあないよ。エンドウ豆だよ」と歌にまで歌って私の名前を宣伝してくれたこともあった。
 そんなことを思い出しながら、私達はエンドウの芽を見つめていた。そのとき町議会の副議長を務め、円満な人柄と高い見識で町民の信頼を一身に集めている多田さんが、わが子にさとすように私に教えてくれた言葉が今も忘れられない。 「遠藤さん。エンドウ豆はね。11月ごろに植えて、寒い冬を越すんですよ。そして春になったらグングン生長して初夏に実をつけるんです。寒い冬の間に、凍えながらも大地に根を張っているんですね。冬を越したものでなければ春になっても伸びないし、伸びてもすぐ倒れてしまいますよ」。
 ああ何とありがたい自然の教訓だろうか。私は我を忘れて、その話に聞き入った。人生もまた然りといえよう。冬の寒さを知った者でなければ春の暖かさがわからない。それと同じように人生の冬を乗り切った者でなければ、人々の心の痛みを理解することはできまい。
 私も今は冬の修行をさせていただいている。何のための冬の修行か。それは自分を鍛えるためである。人生の冬を越えた者でなければ人々の心は理解できない。人々の悩みを同苦できる自分に、成長させていただくために今、冬の修行をさせていただいているのだ。私はとっさにそう思った。
 政治家というのは一面からいえば権力の座であることは間違いない。その権力は民衆の代弁者として民衆に奉仕するための権力でなければならないと私は考える。そのためには、政治家の第一条件は、民衆の心を知ること、民衆が何を求めているかを知悉していくことに尽きる。民衆の心のひだにまでふれていくことを第一義に考えていけば、正しい血の通った政治が行われることは間違いない。
 現在の政治家には私利私欲の権化と化した人々があまりにも多すぎる。主権者である国民を忘れ、党利党略と私利私欲にうつつを抜かす姿は、最近、とみに露骨になりつつある。
 私は生涯、民衆と直結する政治家でありたいと思う。何故なら民衆ほど強い味方はないからだ。そのためには、徹底して自己を磨き、人々から愛される人間に成長していかねばならない。
 私にエンドウ豆を教えてくれた多田さんはもういない。しかし、小さなエンドウ豆の芽は今も私に「お前も頑張れ」と呼びかけてくれる。

 

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 随筆45 「全力投球の美、池田高校の優勝

 もう一昔前の話になってしまったが、今も心に残る痛快事は池田高校の優勝であろう。甲子園を若人の熱と力で沸かせた池田の健闘は、あのさわやかイレブンの初印象を何百倍にもして再現してくれた。
 あの日、日本列島は池田の一挙手一投足に湧き返ったといってよい。日ごろは野球に関心のない主婦やおばあちゃんまで、テレビにかじりつきで黄色い声をはりあげた。そんな光景が県下のあちこちで見られたものだ。
 池田の魅力は何といっても、田舎まる出しの野性味である。小さくまとまらず、一人一人が思う存分に持てる力を発揮した。その思いっきりのよさにあるといってよい。どんな逆境にあっても順境にあっても、ひたすら勝利を信じ真一文字に突進する高校生ならではの青春の爆発があった。全力投球の美しさがあった。
 甲子園の記録を次々に塗り替えていった爆発力は見事というほかない。思わず胸のすく思いをした人も多かろう。政治も経済も行き詰まり、視界ゼロという万事に面白くないことの多い世の中である。それだけに、久方ぶりに心からの喝采を送った人は多い。
 大人ぶった理詰めの野球ほどつまらないものはない。その点、池田の野球には何が飛び出すかわからないゾクゾクするような痛快さがあった。このへんが日本列島を興奮のルツボと化した池田の最大の魅力でもあったろう。
 人生もまたしかりと私は思う。万事に計算づくの取り組みが目立つ世の中である。しかし考えてみれば計算どおり、シナリオ通りにこの人生が過ごせたらこれほど味気のないものはない。何が起こるかわからない。そこに興味もつのり、その時その一瞬に全力投球する意義も生まれてくる。不可能を可能とするようなドラマをこの人生で何度演ずることができるか。それが人生の意義ともいえるのではなかろうか。私は池田の健闘を通して、何事にも全力投球する美しさというものを再確認させていただいたような気がする。シラケムードの漂うこの世の中で、これは貴重な再発見だったように思う。私事で恐縮だが、私は青春時代から現代に至るまで“全力投球”を生活信条としてきた。特に思い出深いのは、昔の話で申しわけないが十五年間にわたる新聞記者生活である。
 入社して1年間はふとんの中で休んだことがなかった。ふとん袋を寮に送ったものの、取材と原稿書きに追われて、寮に帰るひまがない。当時の私の守備範囲は愛知、岐阜、三重、石川、富山、新潟、長野、山梨、静岡の中部九県下。“記事は足で書け”が鉄則の新聞記者はどこへでも飛んでいかねばならない。
 眠るのはいつも列車の中か支局の机の上だった。リノリュームの支局の床で新聞紙一枚かぶって寝たこともたびたびあった。新聞紙1枚でも結構、暖はとれるもので、そんな生活でも風邪などひいたこともない。
 1年たって、ようやく後輩が誕生。寮に帰ってふとん袋を明けてみたら、ふとんはグショグショでカビが生えていた。苦しくもあったが楽しいことも多かった1年生記者のころの思い出は、今となっては、全てが懐かしい。苦しかったことは全部忘れてしまって、楽しい思い出ばかりが記憶に残っているのも不思議なものである。
 15年間、無我夢中で過ごした記者生活を通してつかんだものは、数知れない人と人との出会いである。雪深い長野県は飯山市で、野沢菜のつけものをかじりながら、夜明けまで取材させていただいたこともあった。富山のイタイイタイ病が初めて公害病に認定された初判決の取材では原告の患者の皆さんと抱き合って勝訴を喜んだものだった。
 何につけ、全力投球した喜びというものは時間の経つにつれ、記憶が鮮明になり、懐かしさが込み上げてくるもののようである。

 

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 随筆46 「郷愁誘う美郷のホタル

 美郷村ー美しい響きをもった山里である。剣山の山ふところに抱かれたこの村を初めて訪れたのはもう20年ほど前のことであろうか。漆黒の闇の中を神秘的な光が一筋、二筋、美しい孤を描いていた。長く都会に住んでいた私は一瞬その美しさに見とれてしまった。
 ホタルである。子供のころは袋井用水のあたりでいつもお目にかかっていたが、とんと忘れかけていた。
 ♪ホーホーホタルこい/田の虫こい   あっちの水は苦いぞ   こっちの水は甘いぞ
 笹やうちわを持って、ホタルを追った少年の日の思い出が、淡い郷愁とともに浮かんでくる光景だった。あまりに珍しがるものだから、土地の人が篭を用意して、4、5匹つかまえてくださった。大事に持ち帰って、毎日、霧吹きで水をかけてやったら1週間ほど庭先で幻想的な光を楽しませてくれた。妻や子供は大喜びで、毎晩、ホタルの歌を歌っていたものである。
 昭和55年6月、衆議院の選挙もいよいよ大詰めで、投票日の4、5日前のことだった。何しろ生まれて初めての経験である。無我夢中で走り続け、訴え続けていた私のもとに美郷の心暖かき人々からプレゼントが届いた。
 それは見事なゲンジボタルであった。ホタルの篭に伝言がつけられていた。「若い源氏は古い平家を倒した。遠藤さんも頑張ってください。激闘のさなか、ホタルでひとときのくつろぎを」としたためられてあった。
 何という暖かさ、そして細やかな心遣いであろうか。私は遊説の旅先の宿でホタルを見つめながら、美郷に住む支持者の方々の顔を1人1人思い浮かべた。その日のホタルは、特別に美しかった。静かにそれでいて暖かい光を私の心に注ぎ込んでくれるような気持ちがした。明日への活力がふつふつとたぎってくる思いがしたことも忘れられない。
 選挙後も私は何度も美郷村を訪問している。一度は木屋平村からの帰途、川井峠から美郷に入った。緑の山を削りとって、立派な舗装道路が走っていた。梅の季節であった。どこの家を訪ねても、よく実った青梅が庭に広げられていた。
 ホタルの季節にはいくらか早かったが、初夏の美郷村は全村がみずみずしい緑におおわれていた。田には水が張られ、稲がグングン伸びていた。そんな田んぼの畔道を渡って懐かしい人々のお宅を訪問すると「まあおつけなして。早ようおつけなして」とお茶が出てくる。お菓子が出てくる。  お茶は山でとれた番茶である。これが一番いい。大きな土瓶からなみなみとついでくれる。一気に呑み干す。と、待ち構えていたかのようにまたなみなみと湯呑みが一杯になる。これも呑み干す。と、また一杯・・・。
 お菓子は昔なつかしい“池の月”である。米の粉のせんべいに砂糖をまぶした高級菓子である。子供のころはお正月になるとこの菓子を食べたものだが、とんと御無沙汰していた。静かな山里で昔の味に巡り合えることはうれしい。
 それにしても美郷村にはホタルといい、暖かい人情といい、現代人が忘れかけていた心のふるさとが、そのまま残っている。道路が整備され、町の家並みも変わりつつあるが、今後も郷愁ともいえるこの味を保ち続けていてほしいものだ。

 

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 随筆47 「宍喰町久尾の懐かしい人々

 徳島県の南端にある宍喰町から山路に入り、くねくね折れ曲がった道の終点にあるのが、宍喰町久尾。今は、戸数も数えるばかりになってしまったと聞くが、私にとっては忘れることのできない懐かしい山里である。
 事実、私はこの山里が好きでもう何十回となく足を運んだ。ことに初めて衆議院選挙に出馬した昭和55年6月には、本当に大勢の人達が私を待ち構えて下さっていて、飛びつきそうな勢いで握手攻めにあった。どこの家からも走り寄ってきて声援していただいた。遠くの家々からは、大きなタオルを振って応援していただいた。
 初めての選挙は次点だった。あんなに応援していただいたのに本当に申し訳ない。せめて御礼に回りたい。全県の地図を広げてスケジュールを組んだ。そして最初に訪問したのが宍喰町久尾だった。
 その日も久尾の人々は待ち構えていて下さった。「いっぺん落ちたぐらいで、クヨクヨしよったらあかんでよ。人生頑張らな」年配の方々から、あふれんばかりの笑顔で激励されて、しゅんとしていた私は次第に元気になった。 「鯉の洗い」や「ちょろぎ芋の漬け物」もごちそうになった。澄みきった川が流れていた。空は真っ青でどこまでも高かった。人々の歓声が今も耳に残っている。
 当選後も私は足しげく国会報告に通った。そのたびに人々は都会に出した息子が里帰りしたかのように喜んで迎えてくれた。私も固苦しいことは嫌いだから、いつも車座になってよもやま話に明け暮れた。あまりにも話に熱中し過ぎて、時の経つのも忘れてしまい、螢の飛び交う真っ暗な川辺の道を一人車を走らせて帰った日もあった。満天の星が手の届くほど美しい夜もあった。久尾の懐かしい人々の笑顔とともに私の心に残る風景である。

 

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 随筆48 「中国に贈った阿波踊り竹人形

 阿南市新野町は、阿波踊り竹人形の出生地である。阿波踊りのしなやかな身ぶり手ぶりを小さな竹の枝ぶりで巧妙に表現したこの竹人形は郷土のお土産品のなかでは異色の存在だろう。
 今ではかなり知れわたり、空港の売店をはじめ、どこのお土産品にも並ぶようになったが、生産が家内工業であるだけに、高級品は注文して何か月か待たないと手に入らない。
 阿波踊り竹人形を最初に考案したのは、新野町の農家の人達だ。その一人が、公明党阿南市議会議員をしている鶴羽良輔さんの父、博昭さんだ。私も昔から大変に親しくさせていただき、仕事場にも何日かおじゃましたことがある。
 近所の竹やぶからとってきた竹を薬品で処理したあと乾燥させ、くせをとり、人形の手や足や胴体になりそうなところを選んで切り取っていく。それを作業机の前に並べて構想を練る。そして一つ一つをピンセットで組み立てていく。根気のいる仕事だ。しかし、奥様と息の合った仕事ぶりを見ていると「いいですね。いつも奥さんと一緒で」とつい声をかけたくなるほど、暖かい雰囲気なのである。
 私は2度、注文してつくっていただいた。最初のは初めて中国を訪問したとき、日中友好人民公社に寄贈した。2回目は、やはり、中国をたずねたとき、日本大使館の橋本恕(ひろし)大使に寄贈した。橋本大使は徳島県鳴門市の出身であったから、大変に喜んでくれ、その場で、大使の執務室に飾られた。
 あの2つの阿波踊り竹人形は今も、中国の地で多くの人々の目にとまっていることだろう。私は北京の人民大公堂で、北京の青年達に阿波踊りを演技指導したことがある。私の歌う「よしこの」に合わせて、見事に踊る青年達の飲み込みの速さにいささかびっくりしたが、あの青年達は今はどうしているだろうか。阿波踊りのことを覚えていてくれるだろうか。一度、本場の阿波踊りを踊りに来てほしいものだ。

 

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 随筆49 「のどかなウチノ海のアジ釣り

 急流逆巻く鳴門海峡のすぐ隣に、鏡のように静かな内海がある。ウチノ海である。本四道路からも眺められるが、私は、かつての有料道路の頂上付近からの眺望が好きだ。ことに夕陽のころは絶景である。
 金波、銀波のたなびく穏やかな海に、行く船もイカダ船にいる釣り人の姿もほとんど動かない。絵のような風景が眼下に広がっている。  県外からのお客様がくると、私はよく、ここに案内する。「素晴らしいところですね。こんなところでのんびり釣りのできる徳島の人はうらやましい」と口をそろえたようにいわれる。
 私自身も1回だけ、家族でイカダからの釣りを楽しんだことがある。子供達がまだ小さいころだったが、知り合いの船頭さんに頼んで連れていってもらった。「2時間しかないんです。必ず釣れるところにお願いします」無理な注文かと思ったが、思い切って言うと潮焼けしたほおをほころばせながら「わかった。わかった。任せなさい」
 イカダに乗って、サオを入れると、いきなり、ピリピリと魚信がする。引き上げると、小さなアジが5、6匹かかっている。そんな調子で、まさに入れ食いである。子供達はもちろん、妻までもきゃあきゃあいいながら、無我夢中で釣りに熱中した。
 石田幸四郎さんが、公明党委員長だったころ、徳島で記念講演会や時局講演会を行い、二泊三日滞在してもらったことがある。全ての行事が終わり、飛行機を待つ時間を利用して、イカダ釣りに案内したことがある。 「よし、行こう」大きな身体だが、決断は速い。後援会の方が用意して下さった船に身も軽々と乗り込まれた。
 このときもアジがまさに入れ食いだった。東京から来たSPさんからも、秘書の人達からも徳島はいい所でしたとあとで御礼をいわれた。釣ったアジは大きなクーラーに詰めて持って帰ってもらったのだが、委員長の奥様が全てを料理され、皆さんにふるまわれたとあとで聞いた。
 徳島に返却されたクーラーには、委員長からの御礼状とともに「虎屋の羊かん」が一杯つまっていた。

 

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 随筆50 「夏の日のコンニャク橋

 徳島県出身の写真家・三好和義さんの写真集にコンニャク橋を背にした麦わら帽子の少年が写っている。
 三好さん自身、それは私自身の少年時代であると述懐されている。三好さんと私とはかなり年齢が離れているのだが、「そう、それは私自身の少年時代の姿でもあります」と私も相ヅチを打ちたくなる。
 鮎喰川に架かるJR高徳線の鉄橋から2、300メートル下流にある潜水橋、それがコンニャク橋である。洪水のときには橋ケタだけが残り、木で作った橋は流失することによって、水をせきとめない。つまり、洪水になることを防ぐ。自らを破壊することによって住民の生命と財産を守る。そんな悲愴な決意を持った橋なのである。
 平時のときには、橋ケタの上に板を乗せただけだから、歩くとカタカタ揺れる。自転車で走ると、欄干がないから今にも川に飛び込みそうになる。それでも、子供のころは毎日のようにこの橋の近くの水辺で遊んだ。とくに夏の日は、1日中いたような気持ちがする。
 澄んだ水のなかには、ハゼや小さなカニやエビがたくさんいた。川で泳ぎ疲れると、コンニャク橋の上に大の字になって寝た。麦わら帽子にソデなしのランニングシャツ、そして半ズボン。腰には手ぬぐい。まさに、三好さんの写真と同じ姿だった。
 今、コンニャク橋のあたりを訪れると、コンニャク橋そのものは昔のままだが、少年達はいない。川は危険だから、みんなプールに行ってしまったのだろうか。
 私達の夏の日は、遠い思い出となってしまったようである。

 

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 随筆51 「青い目の人形・アリスの里帰り

 鮎喰川の清流を逆上ると、緑の山々に囲まれた集落が一つまた一つと現れる。毎年植樹祭が行われる森林公園や四国一泉質がよいと評判の神山温泉にも私はよく出かけるが、神山町と聞けば、真っ先に思い出すのが、青い目の人形・アリスちゃんである。
 昭和2年3月3日、おひな祭りの日に、アメリカから日本に12,739体の青い目の人形が届いた。この人形を贈る計画をしたのはアメリカ人のシドニー・ルイス・ギューリック博士。博士は20年間日本に滞在したあとアメリカに帰国。そのとき、日本人移民の排斥運動に直面、日米間は非常に険悪な状態になっていた。“日本の子供達に平和を願うアメリカの心を送ろう”そんな思いが通じたのだろうか。ギューリック博士の計画が発表されると、260万人のアメリカ人がこの運動に参加し、日本のおひな祭りに間に合うよう、ニューヨークとサンフランシスコの港から郵船会社5社の協力を得て日本の港に届けられたのである。
 アリスちゃんはそのなかの一体で、ペンシルバニアからはるばる神山町の神領小学校に来た。ところが昭和16年、太平洋戦争が始まると、全国の人形は敵性人形ということで竹やりで突かれたり、児童の前でガソリンで焼かれるなどまことに悲しい運命をたどる。そんななかアリスを助けたのは当時、神領小学校の先生をしていた阿部ミツエさん。阿部先生は誰れにもいわずに物置に隠した。
 そのアリスちゃんが、たまたま発見され、傾城・阿波の鳴門で有名な浄瑠璃人形の作家・大江巳之助さんが、修復されたという新聞記事を私は目にした。
 即座に私は考えた。“アリスをアメリカに里帰りさせてあげよう”。神領小学校の校長先生からお借りしたアリスを持参して、私は衆議院予算委員会に立った。昭和63年2月29日のことである。その模様はテレビでも放映され、全国の青い目の人形がアメリカに里帰りすることが実現した。同時に、青い目の人形が届けられた当時、日本の小学校の子供達が一銭運動でお金を集め58体の黒い目の人形を答礼人形としてアメリカ各地に贈っていたのだが、その黒い目の人形も日本に里帰りすることが実現した。
 答礼人形の里帰り展は横浜を皮切りに全国各地で展開され、徳島でも徳島駅前のそごう百貨店で行われた。アメリカに里帰りしたアリス達、青い目の人形の里帰り展も全米各地で大きな感動を呼んだと聞く。
 日米関係ほど重要な二国間関係はない。マンスフィールド駐日大使の言葉だ。私もそう思う。そのためにも心の深いところで交流し、理解し合うことが何より大切だと確信する。

 

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 随筆52 「第九初演の地・板東のドイツ村

 年末に「第九」を聴くことが、このところ日本の風物詩となったようである。全国どこの都市でもそんな演奏風景が見られるようになった。
 「第九」とはいうまでもなくベートーベンの「第九交響曲」。東西ドイツが合併し、ベルリンのブランデングルグ門で、歓喜の大合唱があったことは今も記憶に新しい。「第九」は今や世界中の人々に愛され、親しまれる文字通り「歓喜の歌」なのである。
 ところで「第九」が日本で初めて演奏されたのは、徳島県鳴門市大麻町にあった板東俘虜収容所。大正7年(1918年)6月1日のことである。このときの模様は、現在、板東俘虜収容所跡に鳴門市が建設した“ドイツ村公園”内のドイツ館に動く人形で再現されている。資料によるとハイゼン指揮、徳島オーケストラの第2回シンフォニー・コンサートでベートーベンの「第九」が合唱つきで第四楽章まで演奏されたとある。
 板東俘虜収容所のことは、平成6年(1994年)の直木賞受賞作品となった「二つの山河」(中村彰彦著)に詳しい。この本では大正6年6月から、大正9年2月まで2年8ヶ月間、模範的な俘虜収容所としてこの地上に存在した“バンドー”を舞台に、会津人の収容所長・松江豊寿とドイツ人俘虜が国境を越えた友情を結んでいく様子が、感動的につづられている。私は同じ会津人の渡部恒三衆議院副議長をドイツ館に案内したことがあるが、二つの山河のことも松江豊寿さんのこともよく知っておられて「徳島から帰った松江さんは、郷里の人達から推されて会津若松の市長になったんです。人情にあふれた人やった」と昨日のことのようにいわれるのには驚いた。先の大戦というと太平洋戦争でなく戊申(ぼしん)戦争のことをさすという、いかにも会津人らしいおとぼけぶりである。
 「彼らも祖国のために戦ったのだから」とドイツ人俘虜に対して、いつも礼儀正しく、ヒューマニズムで接した松江所長は、たしかに立派だった。けれども、もっと立派だったのは、ドイツ人俘虜を“ドイツさん”と親しみを込めて呼び、何の分け隔てもなく歓待した土地の人々であろう。彼らを教師としてパンや菓子のつくり方、西洋野菜の栽培法、ハムやベーコンのつくり方に始まり、家具の製造や楽器の修理と演奏、製本や印刷技術、橋を架ける土木技術などの知識をどん欲に吸収していった土地の人達の開明さに私は脱帽する。
 外国人に対して何の先入観ももたない。よいものはよいと率直に認識し評価する。この心の広さこそ徳島県人の誇りであり、世界に通用する精神だと私は確信する。

 

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 随筆53 吉野川第十堰と青山士さん

 吉野川第十堰の改築計画が全国的な話題となっている。建設省や徳島県は、抜本的な治水事業として現在の固定堰を可動堰に改築する計画を進めている。ところが住民は、計画の進め方が一方的で自分たちの意見が反映されていない、従って住民投票によって計画の是非を住民に聞くべきである、と訴えているのである。
 古来、吉野川は暴れ川で、吉野川の歴史は洪水の歴史でもあった。屋根がそのまま船となる家屋や、軒先に小舟をぶら下げた家、お城のように高い石垣を築いて、その上に家を建てるなど、周辺の人達は大変な苦労を重ねて吉野川とつき合ってきた。
 洪水から住民の生命と財産を守る。そのために抜本的な治水事業として第十堰を改築する。建設省や徳島県が考えている計画の正当性を私は支持する。しかし、住民の理解が深まっていないことも事実である。建設省や県はどこまでも誠実に住民の理解を得る努力をすべきだ。
 ところでこうした公共事業を進めるに当たって、ぜひ思い起こしていただきたい人がいる。青山士(あきら)さんという内務省の技監である。青山さんは、明治11年に静岡県で生まれ昭和38年、84歳で亡くなっている。若い時に単身でパナマ運河の建設現場に行き、日本人として唯一人、土木工事を勉強して帰国。戦前の二大国家プロジェクトといわれた荒川の放水路、信濃川の大河津分水路を完成させた。
 私が強調したいのは、青山さんの公共事業に対する取り組みの姿勢である。それは端的に記念碑に表れている。荒川の方には「比ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ神武天皇紀元二千五百八十二季荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」と書いてあって、最高責任者である青山さんの名前はない。
 信濃川の方は私も平成6年9月26日、見学させていただいたが、二つの記念碑がある。一つには表と裏があり、表には「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」と書いてある。裏には「人類ノ為メ國ノ為メ」と書いてある。人類のため、国のためというのが青山さんの考え方であり、当時の世相を思えば、まことに革新的な思考といえよう。 もう一つの碑は従業員一同の碑であるが「本工事竣工のため四星霜の久しきに亘りて吾等と吾等の僚友が払いし労苦と犠牲とを永遠に記念せんがために」と書かれていて、ここにも青山さんの名前はない。
 棟方志功さんも“人類ノ為メ國ノ為メ”という言葉はいい言葉だ、と何度も褒めている。私は全ての公共事業はこの精神で進めてもらいたいと思う。
 以上の話は私が平成11年2月17日の衆議院予算委員会第八分科会で質問し、会議録に掲載されている。吉野川第十堰改築問題が住民の理解と協力を得て円満に解決されることを心から祈っている。

 

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 随筆54 「昔懐かし立会演説会」

 衆議院選挙が中選挙区制であったころ、立会演説会があった。徳島選挙区は定数5。いつも10人ほどの候補者があった。その候補者が二組に分かれて、県下各地で開かれる立会演説会に出席する。
 立会演説会はいつも夕方から開かれ、1人の演説時間は30分間、何を話してもよい。思う存分に自分の言いたいことを訴える。聴衆も一晩でたくさんの候補者から直接話が聞けるので、比較検討することができる。よい制度だったのだが、残念ながら廃止されてしまった。
 もう一度立会演説会を復活させるべきだという意見もある。私も賛成だ。自分の支持する候補者の話を聞くだけでなく、全ての候補者の話を直接聞いてみる。その上で一番よいと思う人を選ぶ。それが選挙の選挙たる所以であると私は思うからだ。
 ところで立会演説会で思い出すのは、上那賀町の会場である。確か町役場の隣にあった公民館であったと記憶している。私が演説する時間になると、木頭村や木沢村からも大勢の方々が駆けつけて下さった。盛大な拍手があり、声援が飛んだ。若い私のことを心配して、年配の皆さんが声を限りに応援して下さる。演説が終わると、みんなゾロゾロ会場を出てきて場外でまた大きな人の輪ができた。背広の人は少ない。ほとんどの人が仕事着のまま会場に駆け付けて下さった方々だ。分厚い手、ゴツゴツした大きな手で、私の手を握りしめる。痛いほどだ。「ありがとうございます。必らず勝って皆様におこたえします」そういうのが精一杯だった。遊説車が見えなくなるまで手を振って下さる。私は皆さんが見えなくなっても町の灯にむかって手を振り続けていた。
 立会演説会では、三木武夫さん、後藤田正晴さん、秋田大助さん、森下元晴さん、井上普方さんという壮々たる大先輩の皆さんと御一緒した。皆さん私から見れば雲の上の人達ばかりだったが、舞台のソデで「お先に失礼します」とか「お先にどうぞ」とか挨拶すると、ニコッと笑って「お互いに頑張りましょう」と声をかけて下さり、うれしかった。
 三木武夫さんと後藤田正晴さんは近寄り難い印象があったが、お二人ともいつも私にはニコニコ話しかけて下さった思い出がある。秋田大助さんと森下元晴さんは、いつも笑顔でザックバランなお話ができた。井上普方さんもちょっとおっかない感じはあったが、いつも阿波弁で激励して下さった。
 今思うことだが中選挙区制というのは結構良い制度だったと思う。選挙のときはお互いに競争相手だが、敵、味方ではない。そろって5人は当選できる。だから「お互いに頑張りましょう」と候補者同士が声をかけ合うことができた。だが、小選挙区制はそうはいかない。1人しか当選できない。自分以外は皆、敵となる。日頃は信頼し、尊敬し合っていても、相手を落とさない限り自分は当選できない仕組みになっているからだ。民意が多様化している時代にこんな小選挙区制のままでよいのか、もう一度根本的な議論をすべきだろう。

 

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 随筆55 「番茶づくりは炎天下の労作業」

 那賀川の中流に位置する相生町は、相生茶で知られる番茶の生産地として有名である。昔はどこの家庭でもお茶といえば番茶であった。今は、番茶を知る人も少なくなってしまった。それでも番茶の効用は再認識されているようで、乳児にもよいという話を新聞で読んだことがある。
 梅雨が明け、しゃく熱の太陽が照りつけるころ、相生町を歩くと、どこの農家も番茶づくりに汗を流していた。
 番茶づくりは、まさに炎天下の労作業である。まず茶の葉を摘む。炎天の下で黙々と働く人々の姿には頭が下がる。その茶の葉を大きな釜でゆでる。真夏に火をたくのだからその暑さはたまらない。ゆであがった茶の葉を大きなカメに入れて発酵させる。発酵した茶の葉は熱い。湿度も高い。汗びっしょりで、かきまわす。
 私が訪れたころは、どこの農家も土間があり、番茶づくりの作業所があった。今はどうだろうか。今でも時おり、相生町の番茶をいただくことがある。大きな番茶袋はむかしのままだが、この番茶を作った人々の御苦労を思えば一滴も粗末にはできない。
 相生町でもう一つ印象に残るのは、山菱電機の相生工場である。社長の蓮池哲夫さんは、私の友人であり、衆議院選挙初当選のころから親しいお付き合いをさせていただいている。
 石井町の本社工場に招かれ、社員の皆さんに「人生あたってくだけろ」のタイトルで講演させていただいたこともある。「一度相生工場に来てみて下さい」と案内されてうかがったのだが、びっくりした。天井の高い大きな工場が全て木造りなのである。「自然にやさしい工場にしました。ここは木材の産地ですから、土地にふさわしい工場になったと思いますよ」蓮池さんの説明通りの工場だった。 従業員の人達に感想を聞くと「自然に囲まれた保養所のような工場でしょう」と上手な表現で説明してくれた。
 工場といえば街の中か、海岸地帯。そんな常識を打ち破って、山の中、緑の大自然の中に木で工場を造る。何とすばらしいアイデアだろう。学校も役場も、病院も、もう一度木で造ってみたらどうだろうか。木にはコンクリートにはないやさしさがある。耐久力だってあるはずだ。京都や奈良の古い建造物を語るまでもない。木の文化を再認識してみてはどうだろうか。環境にやさしい町づくりのためにも。

 

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 随筆56 「漆黒の山里に光の海」

 冬の陽は短い。午後7時ともなれば、山里では漆黒に包まれる。
 星が美しい。手が届くほど近くに見える。“あと一時間、今日も最後の一秒まで全力で頑張ろう”遊説隊のメンバーが、気を引き締めた瞬間、誰れかが叫んだ。「あれっ!見てっ!動いとる。光が。グルグル回っとる」。「あそこにも。向こうにも。スッゴイッ。光の海だわ」。  光の海が近づくにつれて、歓声は感動に変わった。光は、一軒一軒の農家の人達が、私達を歓迎するために懐中電灯をグルグル回してくれていたのだった。
 寒風の吹きすさぶ戸外で、ずっと待ち続けて下さっていたのだろう。握手すると、どの手も氷のように冷たい。けれどもどの顔もはちきれんばかりの笑顔。どの家の中からも家族が飛び出してくる。どの家からも懐中電灯や大きなタオルをグルグル回して声援を送ってくれる。 「ありがとうございます。本当にありがとうございます」私も、遊説隊のメンバーもいつか、汗びっしょりになっていた。涙がとまらなかった。 「最高の遊説でした」「こんなに感動したことはありません」。午後8時、マイクを収めると、遊説隊のメンバーは抱き合って喜び合った。
 池田町から山越えで井川町に向かう途中、池田町影野での思い出深い光景である。十数年を経た今も、鮮明に私の目に焼き付いている。
 衆議院選挙が終わったあと、私は当選の御礼に伺った。半年が過ぎ、茶摘みの季節となっていた。影野の人達は総出で茶畑に出ていた。私の姿を見つけると、あの日と同じように大きなタオルをグルグル回して「ここだ。ここだ。ここにいるよ」と教えてくれた。私は走った。思いっきり、山道を駆け登った。全員の皆さんが「おめでとう」と駆け寄ってくれた。 「記念写真をとりましょう」そんな私の呼びかけに、皆さん本当に素晴らしい笑顔でカメラに収まってくれた。私は出来あがった写真を大きく引き伸ばして、一人一人に差し上げた。「いい記念にします。また来て下さい」そんな返事に添えて、新茶が届いた。影野の皆さんの真心を私は永遠に忘れまい。

 

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 随筆57 「一脚に座って教育談義」

 今は故人になってしまったが、市場町に松村春男さんという公明党町議会議員がいた。私にとっては恩人ともいうべき先輩だった。
 市場町も広い。吉野川の北岸地帯から、大俣、犬の墓、境目と山深い香川県境まで、よく二人で歩いた。松村さんは町のすみずみまで知り尽くしていた。そして支持者お一人お一人の生活や悩みごとまで知っていて、何でも相談に乗ってあげた。それでいてちっとも偉ぶらない。素朴な人柄の人であった。
 松村さんの友人で近藤秀太郎さんという年配の方がいた。80
歳を越えていたと記憶している。小柄な方であった。 「まあ、ちょっと休んでいきなされ」。大きな入り母屋造りの御自宅に伺うと、手入れの行き届いた庭に一脚を出してくれた。  奥様が大きなスイカを切って持ってきてくれる。「さあ、食べながら話しましょう」。近藤さんの話は、実に明快だった。 「昔、三木武夫さんが自転車に乗って初出馬の挨拶に来た。候補者本人が来たのはあんたが二人目じゃ。本人から直接頼まれた以上、私は必らず入れるから安心しなさい」 「一人一票ということは一票は私の生命である。生命を金では売れない。だから私は目の前に100万円積まれても、生命を金では売れないと断わる。徳島にもこんな人間がいることを知ってほしい」 「あんたが選挙に出たら、私の一票は必らず入る。あとはあんたの努力じゃ。それには歩くこと。それに尽きる」 「頭で考えるな。足で考えろ。とくに政治家は。そうでないと支持者から心が離れる」 「日本は資源がない。唯一の資源は人間だ。だから教育が一番大事だ」 「知識を教えるだけではだめ。人間を育てる教育をせなあかん」  気がついたら、あっという間に2時間ほど過ぎていた。近藤さんの話は全くよどみがない。そして同じ話を繰り返さない。職業は農業。人生を土とともに生きてきた。土に学んだ人生訓だったのかも知れない。
 私は思った。「世間は広い。本当の人材は在野にある」「徳島はすごい。世間では何の肩書きもない人が、こんなにも高い見識を持っている。これが徳島の政治土壌なのだ」「政治家はしっかり勉強し自己を鍛錬していかないと、こうした方々から無視されてしまうだろう」。 「今日のお話は私の生涯の指針とさせていただきます。本当にありがとうございました」心から御礼を申し上げ、私はまた勇気百倍する思いで歩き続けた。
 7万軒の家庭を訪問し、次の選挙で70,032票いただいて初当選した私は「お陰様で当選させていただきました」と御礼に伺った。近藤さんはわがことのように喜んで下さって「あんたが選挙に出る限り、わが家は親子孫の三代にわたってあんたを応援します」と言って下さった。  その後、近藤さんの訃報に接した私は、ただちに弔問に伺ったが、ご子息から「確かに父から聞いております。父の遺言として、わが家はあなたをずっと応援してまいります。どうぞこれからもよろしくお願いします」と丁重なご挨拶をいただき、感動したことが、昨日のように鮮かに甦る。

 

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 随筆58 「寒風に干柿のスダレ」

 貞光町から真っ暗な山道を車は走り続けた。曲がりくねった道、道幅も狭い。車は一層スピードを上げる。「大丈夫ですか」思わず声をかける。「任しといて。ここは自分の庭みたいなもんですきに」。 車が止まったのは、一宇村大佐古。剣山はもう、すぐそこだ。村議会議員の大森利香さんが「皆待っとるでよ。早よう入りなさい」と自宅に案内してくれる。会場は、はちきれんばかりの人だ。拍手と歓声そして候補者の私を励ます歌声が、夜空にこだましたー。
 衆議院選挙のたびに、私は大森さん一家にお世話になった。いつも自宅を個人演説会場に提供して下さったばかりか村中の皆さんを支持者の皆さんとともに集めてもくださった。時には遊説隊一行を宿泊もさせていただき、早朝からマイクで応援演説していただいたこともある。
 選挙が終わると、私はよく泊まり込みで、一宇村の方々に御礼に回った。そのときも大森さんが案内してくれた。あの谷この谷に点在する支持者の皆さんのお宅を一軒一軒たずねた。いつも秋から冬にかけての季節が多かったように思う。
 ちょこんと屋根のついたハゼに干柿のスダレが垂れ下がっていた。雨にぬれぬように、そして風通しのよいように工夫されている。寒風にそよぐ干柿のスダレは一宇村の初冬の風物詩でもあった。
 夜は、大森さんのお父さんはじめ奥様もまじえて、夜の更けるまで、語り合った。外は凍るほどの寒さだが、家の中はいつも暖かかった。私は特に、土地の人が作った大きな固い豆腐が大好きで、味噌をつけて焼いた田楽は最高だった。
 政治が大好きで「もうこの辺にしませんか」といわない限り、いつまでも話し続けた大森さんのお父さんは、その後、逝去されたと聞いた。心からご冥福を祈りたい。
 大森宅には、5、6年前、訪問したが、その折も近所の人達と心ゆくまで話し合うことができた。一宇村の干柿は今も有名だが、この干柿が出回るころになると、いつも一宇村とスダレ風景が瞼に浮かぶ。

 

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 随筆59 「三頭トンネルが開通」

 平成9年3月30日、待望の三頭トンネルが開通した。私も開通式に出席し、テープカットさせていただいた。美馬町と坂出市を結ぶ国道438号は、これまで未通の国道だった。徳島と香川の県境、寒風越近辺が未通だったからである。
 三頭トンネルの開通で、国道438号は県境付近を最短距離で結び、完通したのだ。私は開通式で祝辞を述べた。「このトンネルの開通は、美馬町と坂出市を直結しただけではありません。日本海側の大山と徳島の剣山を直結したのです。朝、大山を出発すると高速道路で直接、瀬戸内海を渡り、この三頭トンネルを経て、夕方には剣山に登れるのです。このルートを私は大山ー剣山ルートの開通と呼びたい」と。参加者から笑いとともに大きな拍手をいただいた。
 美馬町の人達の喜びは大きかった。徳島の高速道路、美馬ー脇町の開通式にも私は出席したが、その時以上の喜びようだった。それだけ身近かな生活道路だったからかも知れない。
 開通祝賀会は、香川県の琴南町でも行われたが、こちらも大変な盛り上がりだった。町の人達が大勢駆け付けていた。その昔、田植えを終えた“キタガタ”の人達は、早乙女となって、牛とともに峠を越えて香川県に働きに出たという。“カリコ牛”の風習だ。それほどに、徳島県の農家と香川県の農家の結び付きは古い。それだけに三頭トンネルの開通は、年配の人ほど感慨深いものがあったに違いない。祝賀会場では、いたるところで徳島と香川の人達の熱い交歓風景が見られた。
 三頭トンネルの開通は、美馬町ばかりでなく、県西部各地の観光客の増加にもはっきりあらわれている。貞光町の道の駅・貞光ゆうゆう館でも「お陰様で、最近は香川ナンバーの車がうんと増えました」とうれしい話を聞いた。各種の調査でもその傾向は、はっきりと見てとれる。道は町と町を結び、人と人を結ぶ。そして文化を伝えゆく。地域の時代は地域と地域が互いに競争し合う、大交流、交競争の時代でもある。三頭トンネルがいよいよ活用されることを期待したい。

 

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 随筆60 「寒波で全滅したミカン」

 季節外れの異常な寒さだった。朝起きたら、わが家でも、戸外にある温水器が、凍りついていた。水管が破裂し、流れ出た水が即座に氷となってしまったのだ。
「大変です。ミカンが全滅しました。すぐ来て下さい」。勝浦町の支持者から第一報が入った。
「やっぱり、一番先に来てくれましたね。ありがとうございます。早速案内します」。電話を下さった支持者とともに勝浦町役場に到着すると、町長さん自らが先頭に立って、ミカン畑に連れていって下さった。
 どこのミカン畑に行っても、ミカンの木はうなだれている。「こちらの方は、寒さに強いものを植えていましたから」と一縷の望みを託した地域もやはりダメだった。
 山々をあちら、こちらと歩き回ったが、どこも同じだった。「全滅ですね。ようやく軌道に乗って、これからという時だけにまことに残念です」農家の人達も悔しそうだ。けれども、天災だけに、不満をぶつける所がない。「保険はどうなっています。せめて、果樹共済保険の支給をできるだけ早く、できるだけ多くできるように取りはからってみます」私もそういうのが精一杯だった。昭和59年9月29日のことである。
 国会に帰ると私は早速行動を開始した。農水省に天然災害による共済保険が早期に支給されるようお願いした。今後のために寒さに強いミカンの品種を開発するよう働きかけもした。
 そんな努力が実り、日をおかずに調査官を派遣していただき、保険が支給された。また立枯れしたミカンを寒さに強い品種に植えかえることにもなった。
 勝浦町役場の方々とは、そんな御縁がきっかけで、おつき合いが始まり、平成10年3月13日には、町長や議長とともに通産省へ町の誘致工場閉鎖問題で申し入れに行き、3月19日の衆議院予算委員会第五分科会で取り上げた。
 海外は人件費が安い。製造業が生産拠点を日本からアジアの諸国に移している。それは営利を目的とする企業活動としては是認されても、これといった産業のない自治体にとっては、せっかく誘致した工場の閉鎖は、致命的な痛手となる。誘致工場がその地域の中核産業となっている場合はなおさらである。
 勝浦町の場合も、町をあげて、工場閉鎖反対運動が起こった。しかし結局は閉鎖されてしまった。従業員は一人も解雇されず、同社の那賀川町の工場に雇用されたけれども。町では、新たな地域の活性化をどうするか、大きな宿題を背負うことになった。過疎化の町の悩みは深い。

 

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 随筆61 「ブナを守れ!しもあれ国有林へ」

 昭和60年4月12日、公明党にジャパングリーン会議か発足した。初代議長は参議院議員の多田省吾さん。行動の人だった。私も発足式以来、お供して視察にシンポジウムに申し入れに同行させていただいた。
 緑を守ろう。良質の緑を日本中に残し、育てたい!多田さんの心をかきたてたのはそんな思いだったに違いない。
 秋田県の白神山地。ここでは青森と秋田をつなぐ青秋林道がブナ林を切り倒して開通する予定だった。昭和62年10月13日、私達は、その現場を視察、直ちに工事の中止を政府に訴えた。これがきっかけとなり、工事は中止され、今は世界遺産に登録されている。「徳島でもブナの国有林が代採されています。ぜひ、来て下さい」私のそんな訴えに、多田さんは二つ返事で「わかりました。皆んなで行きましょう」と早速行動を開始してくださった。
 昭和63年4月1日、木沢村の“しもあれ国有林”にはまだ雪が残こっていた。その残雪を踏み分けて、多田議長を先頭に衆参国会議員、地方議員がそろって視察した。案内していただいた営林署の方々もびっくりするほど大勢の、しかも精力的な視察だった。
 私はこの視察をもとに、さらに調査を進め、平成1年11月21日の衆議院環境委員会で取り上げ“しもあれ国有林”のブナは保護されることに決定した。
 ブナは森の王様といわれる。「ブナの森に水筒いらず」といわれるほど、ブナの木には大量の水が含まれている。ブナの森では土壌にも大量の水分が含まれていて、動植物の豊かな多様性を生み出す源泉となっているのだ。
 そのブナ林を杉や檜の林とする。そんな戦後の拡大造林は、明らかに行き過ぎであり誤りだった。天然のダムを崩壊させてしまったのだから人工のダムをいくら作っても、地崩れを防げないのは当たり前だ。
 もともと国有林野事業を特別会計にしたのは、戦後の復興資金として国有林野が切り倒されるのを防ぐためだったと聞く。それが年とともに全く逆の結果を生み、特別会計制度のために、経済性を優先した国有林野事業を行わざるを得ない宿命を負ってしまったのである。
 最近は、その愚を悟り、森林を保護する観点から、国有林野事業の見直しが行われており、林野行政は大きく変わりつつある。今後は林野行政と環境行政を一体化し、ブナの林を含めたこの大自然を何としても保護しなければならない。

 

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 随筆62 「たらいうどんと三木武夫さん」

 鴨島町から土成町を抜け、香川県白鳥町に至る国道318号は県境に鵜田尾トンネルが開通してずいぶん便利になった。私もよく利用させていただいているが、奥宮川内の渓谷は四季おりおりに豊かな表情を見せてくれる。春は桜並木がダムの湖畔に万朶のにぎわい。秋は満山紅葉に染まる。
 この渓谷沿いにたらいうどんの店が建ち並んでいる。大きなタライを囲んで、渓谷の景色を楽しみながら、アツアツのうどんに舌つづみを打つのは、まことに野趣に富んでいる。
 農繁期は、昼ごはんに家に帰る時間がない。野良でうどんをつくって、みんなで食べた。それがたらいうどんの起源だという。だから、大勢で食べるほどおいしい。昔は、宮川内谷川にたくさんいたジンゾクという小魚からダシを取ったが、今はカツオ節からとる。
 平成10年7月、三木武夫さんの長女・高橋紀世子さんが参議院選挙に出馬したとき、土成町の方々が選挙事務所でよくたらいうどんを作ってくださった。大きなカマドを作り、大きなナベで、びっくりするほどのうどんをゆで、たらいうどんにしてくれた。私も大勢の皆さんと一緒にいただいたが素朴な味は毎日食べてもあきなかった。
 この選挙で、私は選挙事務長をつとめたのだが、高橋紀世子さんは初出馬ながら164,544票を獲得し、見事当選した。土成町の皆さんの喜びはことのほか大きかった。町長さんはその日のうちに三木武夫さんの立像に報告に行ったという。
 土成公園に立つこの立像には私も思い出がある。除幕式は平成5年4月4日行われ私も出席した。三木武夫さんと私は昭和55年、昭和58年、昭和62年、と三回の選挙を互いに候補者として戦ったが、いつも厳しさの中に暖かさを秘めておられて、遊説車や立会演説会でお会いすると「頑張りなさいよ」と声をかけて下さった。立像をみると私の目にはそんな三木武夫さんの姿が二重写しになる。
 新進党の時代は、党首が海部俊樹さんだったこともあり、よく徳島に来ていただいた。そのたびにこの立像の前で街頭演説会をしたり、すぐ近くにある三木武夫さんのお墓参りをした。いつも住職が丁重に案内して下さったことを思い出す。
 高橋紀世子さんとのご縁で、南平台や土成の御自宅に伺い、三木武夫さんの書や絵、夫人の睦子さんが作った焼き物などを鑑賞しながら政治のこと人生のことなどいろいろ懇談させていただいたこともあった。それにしても、念願の当選を果たしながら、クモ膜下出血に倒れた紀世子さん。今はリハビリに専念されていると聞くが、一日も早く回復され、政治活動に復帰できるよう心から祈っている。

 

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 随筆63 「少年剣道と稲木紀一さん」

 国会の私の事務所は初当選以来、ずっと変わらない。東京都千代田区永田町2−1−2、衆議院第二議員会館の734号室である。
 部屋には、私の好きな吉野川の絵や人形浄瑠璃の藍染めがかかっている。ランドサットが撮影した四国全図も目を引く。阿波踊りの竹人形もある。
「徳島のにおいがしますね」訪問客からそういわれると正直いってうれしい。
 国会開会中は、四、六時中、来客がある。いつもあわただしくて申し訳なく思っているが、徳島県人がくると「まあ、お茶でもどうぞ」と知らず知らずのうちに長話になってしまう。
 とりわけ、うれしかったのは少年剣道の子供達が大勢で国会見学に来て下さった時であった。「あす全国大会に出場します」という子供達と国会見学のあと一緒に昼ごはんを食べた。
  少年剣道といっても半分くらいは女の子である。しかも女の子の方が体格がよい。お父さんお母さんも一緒の食事はまことににぎやかだった。
「女の子の方が強そうやね」「残念やけど、その通り」「ホンマホンマ」「でも、その方が世の中うまくいくんと違う」「ホヤホヤ」「うちでもお母さんがお父さんより強いもん」「うちもや」「やっぱしなあ」。
「きょうだけは鉄砲を持たずビデオを持ってきた」という警察官のお父さんもニコニコ笑いながら子供達の会話に耳を傾けていた。
 この少年剣道の一団を引率してこられたのが稲木紀一さんであった。稲木さんは、大正6年2月11日徳島市に生まれ、私と同じ徳島工業高校を卒業のあと、栄青写真とトクジムという二つの会社を創立。徳島県ビルマ会会長としてまた徳島県剣道連盟や、徳島眉山ライオンズクラブでも活躍されたが、子供達の人間形成を剣道を通して行うことに熱い情熱を注がれた方であった。剣道教士六段。私も一度だけ稲木さんが竹刀(しない)を振る姿を拝見したが、正眼の構えから上下に振りおろす竹刀に毛筋ほどの揺れもなく、呼吸も全く乱れていないことに心から感動したものである。
 ところで稲木さんは私にとってはいくら感謝しても感謝し尽くせぬ大恩人でもある。衆議院選挙に二度目の挑戦をした時、私は母校の大先輩である稲木さんにすがりつく思いで相談した。「わかりました。私から同窓会の推薦がいただけるよう努力してみましょう」。そればかりか「徳工から国会議員を出す会」を結成して下さり、自ら会長を引き受けて下さったのである。「バッチをつけて、母校の創立80周年の記念式典に来なさい」それが稲木さんの口グセだった。
 厳しい選挙戦だった。稲木さんは毎日のように選挙事務所に駆けつけて下さった。どこへ行っても「稲木さんから聞いています。母校の代表として頑張って下さい」と暖かい声援を受けた。そして初当選。「お約束通り、バッチをつけて創立80周年のお祝いに来ることができました」。記念式典でお会いした稲木さんの目には光るものがあった。
 残念ながら稲木さんはもういない。最後にお目にかかったのは亡くなる二週間ほど前、病院にお見舞した時であった。その時も「次の選挙も必らず勝ちなさいよ」と心からの激励をいただいた。
 稲木さんが働きかけて下さって以来母校の同窓会からは、選挙のたびに推薦をいただいている。そして「徳工から国会議員を出す会」は松田海三会長、西英勝事務局長に引き継がれ、一層力強い御支援をいただいている。
 私は稲木紀一さんをはじめとする母校の皆様に、いつも心からの感謝をせずにはいられない。

 

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 随筆64 「檜瑛司さんと創作舞踊」

 JR板野駅の駅前に小さな記念館がある。徳島が生んだ創作舞踊家・檜瑛司さんが子供達のために収集した童謡などの作品を展示した資料館である。
 檜瑛司さんは本名を唐崎栄司といい、大正12年3月7日、鳴門市に生まれた。早稲田大学文学部を卒業して、昭和23年に檜瑛司創作舞踊研究所を創設されている。
 私が檜さんのことを知ったのは、炎天下を毎日毎日麦わら帽子に腰てぬぐい、スニーカーに開襟シャツで歩き続けていたころだった。たしか木頭村かどこかのひなびた山里で昔から伝承されてきた踊りを復活させようという試みがされていた。その運動の中心者が檜さんだった。「面白い人もいるものだ」「でも、うれしいことをしてくれる人だ」「もうかる話でもないのに、一生懸命取り組んでいる。どんな人だろうか。ぜひ一度お会いしたいものだ」私はそう思った。
 そんな思いが通じたのか、ある日、檜さんから直接、手紙が届いた。「徳島県下各地を取材して一つの創作舞踊を作ってみました。ぜひごらんください」。私は喜んで出席した。眉山のふもとに野外舞台が作られていた。闇を数カ所に置かれた「かがり火」が照らす。その光の中で「京女郎」に扮した檜さんが舞う。
 幽玄の舞台だった。剣山を中心に県下各地に点在する「京女郎」の無縁墓を訪ね歩き、その菩提をするつもりで創作したという。
「徳島はじつは民謡や民話の宝庫なんですよ」「でも忘れ去られようとしている。残念なことです」舞台が引けたあと、檜さんは初対面の私にいろんなことを教えてくれた。「私は古いものを発掘して、新しい創作の光を注ぎたい。そして現代に蘇らせたいんです」私はいつの間にか、檜さんの世界に引き込まれていた。
 東京で公演があったとき花束を持って駆けつけたら、御本人が飛んで来て楽屋まで案内してくれた。この時の舞台は吉野川の芦原を一人の船頭が舞台の下手から上手へそして上手から下手へ舟をこいで行く。それだけのまことに単調なものなのだが、一幅の名画を見るようで印象深かった。
 檜さんとの心の交流は自然に深まっていき、海南町で私が国会報告会を開催していると「看板を見て来ました。私もこちらに来ていたものですから」と気軽に駆けつけて下さり、飛び入りで応援演説して下さったこともあった。
 平成元年12月9日には徳島県文化賞の受賞祝賀会が行われ、私も参加させていただいたが、檜さんは本当にうれしそうだった。
 徳島が大好きで、徳島を文化の都にしたいと創作舞踊一筋に生き抜いてこられた檜瑛司さんは平成8年1月逝去された。13日の告別式に私も出席したが、本当に大勢の方々が別れを惜しんでおられた。
 今、徳島市住吉4丁目の御自宅では奥様とお嬢様が舞踊研究所を継承され、いよいよ発展している。そして檜瑛司さんの部屋は机も書架も生前のままで、大好きだった煙草が、いつも新しいものに取り換えられて机の上におかれている。

 

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 随筆65 「地方自治は民主主義の学校」

 那賀川町といえば、すぐ思い出すのが、前町長の小泉隆一さんである。小泉さんはもともと那賀川町役場の職員だったが、公明党公認で町議会議員を4期務め議長も経験された。その後、周囲から強く推されて助役として活躍したあと町長を3期つとめられた。
 私が一番お世話になったのは捲土重来を期して次の衆議院選挙をめざしていた昭和55年6月から58年12月のころであった。当時小泉さんは町議会議員をされていて、毎日毎日那賀川町内を案内して下さった。
“破壊は一瞬。建設は死闘”これが小泉さんの口グセだった。いつもそういって若い私を励ましてくれた。炎天下を一日歩き続けたあと「ちょっと、元気をつけましょう」といってうなぎを食べに連れていってくれたこともあった。
 小泉さんの部屋はいつも地方自治の分厚い書籍がびっしりと並んでいた。「地方自治は民主主義の学校といわれています。この国が民主主義のすばらしい国になるためにも、地方がイキイキしていなくてはなりません。」厳しい現実に直面しても、一層理想を高く燃え上がらせる。そんな心意気が言葉の端々ににじみ出ていた。
 私が衆議院選挙に初当選したころ、御礼に伺うと、小泉さんは那賀川の河口に近い湿地帯を案内してくれた。「ここに何か、町の人達に喜んでもらえるものを作りたいんですよ」。殺風景な何もない原野を前に小泉さんはもう頭の中で絵を描いている。そして町長になると即座に実現させた。「コート・ベール徳島」の完成である。ここには誰れでもゴルフが楽しめるパブリックコースのほか、多目的広場やテニスコート、野鳥観察園もある。
“子供達を宇宙に招待したい”そんな夢とロマンも「科学センター」に「天文館」をオープンすることで実現した。
 室町幕府第十四代将軍の足利義栄など足利家歴代の墓所がある「平島公方」の史実に光をあて、マンガ本で紹介もした。薪能も好評を博した。はるかモンゴルに野球場をプレゼントする快挙もやってのけた。
「まだまだ実現したい夢が一杯あります」といっていた小泉さんだが、今春の選挙では惜敗された。私も精一杯応援させていただいたが、まことに残念だった。
 数ヶ月後にお会いすると「選挙は勝たないとダメです。頑張って下さい」と逆に激励して下さった。
 那賀川町では平成十二年度の完成めざして「道の駅」の工事が始まる。小泉町長時代役場で一緒に事業化の相談をしたことが懐かしい。
 誠心誠意町の発展に尽くされた小泉さんの、いよいよの御健勝と那賀川町の発展を心から祈りたい。

 

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 随筆66 「ワサビ出荷組合と三木申三さん」

 車が通る道がない。だから歩く。おとなも子供も、おじいちゃんもおばあちゃんもみんな歩く。買い物も全部自分で運ぶ。テレビや冷蔵庫は背負って運ぶ。平らなところはまだいい。立木につかまりながら下りる急傾斜地は大変だ。
「生命がけですね」といったら「ずっとこんな生活ですきに、私達は慣れています。でも若い人は皆出て行きますね」そんな返事がかえってきた。
 半田町樫尾。曲がりくねった山道を上り下りしながらたどり着くとパッと視界が開けた。一番近くの農家に集落中の人達が集まってくれていた。
 早速、座談会が始まる。話題の中心はやはり道を作ってほしいということだった。「わかりました。必らずつくります」私が即答するとびっくりするほど大きな拍手がわいた。
 私は道を作ることには自信があった。しかし道を作っても働く場所を作らなければ若い人達は出ていってしまうのではないだろうか。そんな不安があった。
 過疎地に道を作ると、引っ越し荷物を積んだトラックが下りてくるだけ。道はできても人はいなくなる。そんな笑うに笑えない話を何度聞かされたことだろうか。
「ところで道ができたあとの話ですけど、道を利用する地場産業はありますか」おそるおそる私がたずねると「タバコもあかん」、「蚕もあかん」といったきり皆、だまってしまった。
「まあ、ゆっくりみんなで考えてみましょう」私達は気分転換のため、すぐ下を流れる谷川におりてみた。
 澄みきった水。そのせせらぎのなかに緑の植物が群生していた。「これは何ですか」と聞くと「ワサビです。天然のワサビです。このへんはいっぱいありますよ」と別に気もとめない様子なのである。「これだ!」思わず私は叫んだ。「ワサビを栽培したらどうですか。生ワサビは町で買ったら一本1,000円しますよ。」こんなことがきっかけで半田町樫尾ワサビ出荷組合が誕生した。県の助成を受けて、ワサビ畑も完成した。
 そして昭和61年4月28日、私は当時の三木申三徳島県知事とともに再び樫尾を訪問した。前々日には明石海峡大橋の起工式があり、何かと忙しい時期だったが「私が案内します」というと三木申三さんは二つ返事で「私も行きましょう」と同行して下さった。
 樫尾の人達は大喜びだった。新しい道も完成し、樫尾は見違えるばかりに活気づいていた。豆腐とジャガ芋の味噌田楽をいただきながら知事を囲んで「村おこし」の話ははずみにはずんだ。
 あれからもう13年。十年一昔というが、私にとってはまるで昨日のことのように感じられる懐かしい思い出である。

 

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 随筆67 「未来をひらく空の玄関」

 金帰月来という言葉がある。毎週金曜日に選挙区に帰えり、月曜日には国会に来るという意味のようだ。
 事実、私もこの言葉通り、初当選以来16年間ずっとこのスケジュールで、今もこれを繰り返している。そのたびにお世話になっているのが松茂町の徳島空港である。自衛隊との共用であるため徳島飛行場ともいう。
 紀伊半島の突端・串本上空から飛行機の高度は下がり始める。眼下に紀伊水道が広がり、その彼方にふるさとの山河が浮かぶ。蒲生田岬の先端に伊島が見える。那賀川の河口、そして小松島港に続き吉野川が近づく。絵に描いたような美しさである。
 空港の上空に来ると、視野一杯に水と緑に彩られた徳島平野が鮮やかにその素顔を見せる。「いいなあ、やっぱし、何たって徳島はいい」いつも同じ風景を見ているはずなのに、私はそんな思いにかられる。空から見る徳島空港は、ドーンと流れる吉野川とくねくね蛇行する旧吉野川、そしてレンコン畑や水田に囲まれ、水と緑の中に浮かぶ小さな島のようだ。
 私が初当選したころ、東京便にはジェットが就航していなかった。大阪便が主流で便数も少なかった。だからフェリーや高速船で神戸や大阪に渡り、新幹線で上京することが多かった。
 現在は東京便はダブルトラッキングも実現し、一日七便、中型ジェットが往復している。大阪へは五便、名古屋にも二便、福岡へは一便、札幌へも隔日だが一便就航している。東京には日帰りできるほど便利になった。私自身、徳島空港の整備と路線の拡大を国会で訴え続けてきただけにうれしい限りだ。
 徳島空港の課題は滑走路を現在の2,000メートルから2,500メートルに拡張すること。併せて周辺を総合的に開発整備すること。この計画はすでに事業着手されていて、環境影響を評価する段階まで進んでいる。
 2,500メートルになると大型ジェットも就航できる。四国では松山や高松と同規模の空港となる。高知空港も2,500メートルに拡張する計画で事業を進めている。徳島空港を国際化する。これは私の夢である。成田も関空も滑走路が一本しかないためハブ空港の役割を果していない。ソウルや上海がアジアのハブ空港めざして着々と整備を進めている。ここに直接アクセスすれば世界中どこにでも行ける。徳島の空の玄関が世界につながるのだ。21世紀は間近い。未来への夢をひらく、そんな徳島空港にしたいものだ。
 ところで空港を利用するたびに思い出す人がいる。空港と目と鼻の先にお菓子の工場と阿波乃里という徳島県観光協会指定の観光ステーション設置モデル施設を作った岡武男さんである。
 岡さんは明治41年6月1日山川町に生まれ、ハレルヤ製菓を創業した。この土地に本社工場を移転するに当たって自ら弁当を腰に毎日毎日歩き続けて探し出したという。「当時はカヤの生い茂った不毛の土地で、不動産業者さえ見向きもしなかったところですわ」社長室でそんな話をしてくれたことが懐かしい。残念ながら岡さんは逝去されたが、工場と阿波乃里は四季を通じて観光客がひきもきらない。

 

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 随筆68 「氷点下、暗闇のなか歩き続ける」

 上勝町八重地。初めて衆議院選挙に出馬したとき、私はこの土地にあった小さな旅館で遊説の第一夜を過ごした。生まれて初めてタスキをかけ、大きなリボンをつけて少々緊張気味の私を土地の人達が暖かく歓迎して下さった。
 汗まみれ、クタクタに疲れた身体も一風呂浴びるとシャンとした。夜食のおにぎりをほおばりながら土地の人との歓談は深夜まで続いた。
 翌朝は暗いうちから山に入り、遊説が開始できる時刻になると「おはようございます」と第一声を放つ。そして勝浦川沿いに点在する山里を駆け巡る。どこの家庭からも手を振ってこたえて下さった。
 特に印象深いのは、正木ダムの上流に位置する柳谷での思い出である。
 ここでは文字通り一軒残らず総出で応援して下さった。初めて会う人達ばかりなのに、まるで自分のことのようにこんなにも真剣に応援して下さる。ありがたいことだ。私は生涯、この人達のことを忘れまい。そう心に誓った。
  初めての選挙は次点に終わった。当選できなかった。けれども私は県下中を御礼に歩き抜いた。柳谷にも行った。その日は南国には珍しく寒暖計は零度を下回っていた。
  真冬の深夜、真っ暗闇のなかを一軒一軒、懐中電灯を頼りに歩いた。
  夕方、月ケ谷温泉に入り、頭を洗ったのが大失敗だった。水を含んだ頭髪は、戸外の寒さで凍りついてしまったのだ。頭が痛い。寒さで身体が震える。それでも歩き続けた。発熱した身体の体温を測ってみると39度もあった。
  翌日は、池田町からさらに奥に入った山城町を御礼に回った。発熱のせいか、山道を登り下りすると、まるで宇宙を遊泳しているかのようだった。それでも歩き続けた。
  あのころが懐かしい。37歳だった。今から思えば、ちょっとむこうみずだったかも知れない。身体はもっと大切にしなければと思う。
  上勝町では、ここ数年「彩(いろどり)」をキャッチフレーズに山野に自生する木の葉や植物を食品に彩(いろどり)を添えるものとして売り出している。田舎ではあまり商品価値があるようには思われないのだが、都会では結構人気を博しているようだ。
  こんなアイデアを生み出す上勝町の人達は感受性が豊かで心の暖かい人達なのだとつくづく思う。

 

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 随筆69 「「虹をつかむ男」の舞台に」

 正月映画といえば御存知「男はつらいよ」。ふうてんのとらさんとまわりの人達がぶつけ合う赤裸々な人間味とちょっぴり悲しいロマンスが毎年日本人の心を暖かくした。
 名優・渥美清さんが亡くなった。山田洋次監督は、さぞかし「ガックリ」されたことだろう。その監督に再び創作への意欲をかきたたせたのが、脇町という土地とここに住む人々の持つ素朴な暖かさだったようだ。
 映画「虹をつかむ男」では脇町は光町として登場する。封切りの日、私も子供のころよく通った懐かしい蔵本の映画館に妻と一緒に並んで切符を買った。
 古い壊れかかった映画館で映画の大好きな主人公の西田敏行さんが、町の人達を集めて名画をたて続けに上映する場面、雨に唄えばの曲に合わせて踊る場面、小さな小学校の分校で映画会をする場面、今も鮮やかに目に浮かぶ。
 ところでボロボロで廃館寸前だった脇町の映画館は、この作品がきっかけとなり、その名も映画で登場した「オデオン座」の名前で見事に復元された。今やうだつの町並みとともに、全国にも知れわたり、観光の目玉となっている。
 この「オデオン座」の前を流れるのが大谷川である。岸辺には大きな柳の木があり、町に灯がともるころともなると時代を感じさせる風情が漂う。町役場も近く、町の中心市街地を形成している。
 私が初めて衆議院選挙に出馬したとき、ここの河原で大演説会をしたことがあった。当時は今のように広い会場がなく、この河原に遊説車を乗り入れて行った。脇町ばかりでなく美馬郡、三好郡全域から何時間もかかって駆けつけて下さった。私は全員の方々と握手させていただいたが、全身、汗でずぶぬれになったことをおぼえている。そして、お一人お一人の表情まで思い出す。
 脇町には、その後何百回も通った。夏子から農免道路で平帽子まで行ったこともあった。平帽子の人達は高原野菜を作っていた。どこの家庭からも、おみやげに、トレトレの野菜をいただいたことが懐かしい。
 ランづくりで有名な河野メリクロンの社長・河野通郎さんも脇町の人だ。いつも世界を相手に事業を展開している。研究室で働く若い人達の仕事に対する意気込みには圧倒される。東京は後楽園のドームでランの展示会があり、私も鑑賞したことがあるが、河野さんが出品したものが一番、豪華だった。同じ徳島県人としてうれしかった。脇町から「虹をつかむ男」が一杯出てほしい。

 

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 随筆70 「美馬中央橋と佐藤藤太さん」

 貞光町と美馬町を結ぶ美馬中央橋。この橋を見るたびに佐藤藤太さんのことを思い出す。佐藤さんは貞光町の繁華街でハンコ屋さんを営みながら、公明党の町議会議員をされていた。
 剣道の達人で、刀剣にも詳しく、刀の話になると頑として譲らなかった。いつもニコニコ笑っていて人なつっこい方だったが、竹を割ったように一本気なところがあった。  佐藤さんには、よく貞光町内を案内していただいた。自動車の運転はそんなに上手ではなかったが、端山の奥の急傾斜地であろうと所かまわずどんな山道も車で走り抜かれた。
 私はいつも座席にしがみつく思いで乗っていたが、幸い事故に遭ったことは一度もない。そんな佐藤さんがしみじみいわれたことがあった。「ここに橋を架けたいんです。この吉野川に、貞光町と美馬町を結ぶ橋を」。堤防の上で、対岸を指さしながら佐藤さんは、つぶやかれた。
 「私は町議会議員に初当選以来、ずっと言い続けてきたんです。いつも同じことを言っとると同僚から笑われることもありましたが、いるもんはいるんじゃと私は言い続けてきました。お陰で、もうじき工事にかかることになりました。うれしいことです」。  議員冥利に尽きるーー。永年の主張が実った喜びを佐藤さんはそんな言葉で表現してくれた。町の人達の喜ぶ姿が目に浮かぶのだろう。佐藤さんの顔は子供のように輝いていた。
 美馬中央橋は完成した。佐藤さんの根気よく粘り強い主張が町長を動かし、県や国の関係者を動かしたのだ。地権者の皆さんにも大変な御協力をいただいた。そんな皆さんの熱意がここに実を結んだのであった。今では、対岸の美馬町には高速道路が走り、インターチェンジもできた。三頭トンネルも完成し、香川県もグンと近づいた。貞光町を通る国道192号には道の駅・貞光ゆうゆう館が観光客の人気を呼んでいる。
 こんな貞光町を今は亡き佐藤さんにぜひ見てもらいたかった、と私はつくづく思う。初盆の供養に佐藤宅を訪問した私に息子さんも同じことを言われた。息子さんは家業のハンコ屋さんを引き継いで頑張っている。佐藤印章店の界わいは、今も昔もあまり変わらない。私にとっても馴染み深い通りである。

 

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 随筆71 「蛙の子は蛙」

 私の手元に衆議院議長をつとめた秋田清さんと、副議長をされた秋田大助さん父子二代の政治記録を綴った立派な写真集がある。
 平成7年4月、秋田大助顕彰会が出版されたもので、顕彰会会長の真鍋晃三好町長は写真集を「蛙の子は蛙」と題した理由を、秋田大助さんが生前からよく使っていたこと、大助さんが衆議院議員に初当選した直後、父の親友だった衆議院議員の葬儀に参列したおり、奥様から「蛙の子はやはり蛙の子に育ったのネ」とご挨拶されたことに深い感銘を受けたといつも語っていたことによる、と述べている。
 今、三好町には父子2代の墓があり、私も墓参させていただいたことがある。清さんの銅像は池田町の三好大橋のたもとにあり、大助さんの銅像は三好町にある。大助さんの銅像除幕式は平成7年5月20日行われ、私も出席し、挨拶させていただいた。
 秋田大助さんと私は、昭和55年と58年の2回、選挙戦を戦った。55年は初出馬の私が落選し、58年は、秋田大助さんが落選された。当選すれば、父子2代の衆議院議長は確実といわれていただけに、私は申し訳ない気持ちで一杯だった。
 「私が当選したもんで、先生が当選できませんでした。すんません」私は率直に話した。すると「いや、あなたのせいではありません。私のせいですから」と語られた。誠実そのもののお人柄がにじみ出ていて私は感動した。
 選挙の時、いつもすれ違うたびに白い背広の秋田大助さんから「頑張りなさいよ」と声をかけていただいた。東祖谷山村の役場の前で握手してもらったときの柔らかく温かかった感触は今も忘れない。
 秋田大助さんが逝去されたのは昭和63年11月29日、公明党全国大会の日だった。私はとるものもとりあえず通夜に駆けつけ、葬儀にも出席した。祭壇には、にこやかないつも通りの秋田大助さんの笑顔が、参列者を暖かく見守っていた。

 

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 随筆72 「四国第一の清流・穴吹川」

 剣山から木屋平村を経て、穴吹町古宮を通って吉野川に注ぐ穴吹川が、今年も四国第一の清流となった。
四国には日本最後の清流と呼称される四万十川(高知県)や四国三郎の別称で知られる吉野川など有名な河川が多い中で、四国第一の清流と言えばいつも穴吹川の名前が上がる。まことにうれしい限りである。
 ある夏の夜、真っ暗な山道をくねくね曲がりながら下りてくると突然視界が開けた。ゆったりと流れる穴吹川の川面にホタルの群れが美しい光の軌跡を描いていた。サラサラと流れる水音がさながらBGMのようだ。私は車を止め、ホタルのダンスに見とれてしまった。
 穴吹川をいつまでも四国第一の清流に、と町の人達はいつも心を配っている。とともに川に親しみ、川と遊ぶことも忘れない。8月の第一日曜日に行われる、イカダ下り大会は全国から参加者が駆けつけるほどだ。私も穴吹町はよく歩かせていただいたが、初草、口山、古宮などは特に思い出が深い。地元の支持者の方々とともに山のてっぺんでお弁当をいただいたこともあった。「このへんは食堂がないからね。遠藤さんが来るちゅうんで、前の晩から用意しといたの。まあ、食べてみてちょうだい」お弁当は大きな寿司桶に並んだアジとボウゼの姿寿司だった。
  私も大好物だ。「こりゃあうまい、最高ですネ」思わず叫んだ。ユズが効いている。「なんだか、遠足の気分ですね」誰かが言った。山の中でみんなでワイワイいいながら食べた、あの寿司の味は今も忘れられない。
 口山では、葉タバコ栽培に励む人達と野良に建つ御堂で車座になって2時間も3時間も語り合った。唯一の現金収入だった葉タバコ栽培も、今や斜陽産業となってしまったこと。他にこれといった収入が見込めない農村では若い人達が離農せざるをえないこと。このまま放置すれば先祖代々にわたって切り開いてきた農地が、元の原野にかえってしまうのではないかと心配する人達。中山間地で農業を営む人達の悩みは深い。
 国会では新農業基本法を制定し、中山間地に直接所得保障制度を導入するきっかけを作ったが、これをどのように具体化していくか、知恵を出さなければならない。農業を産業と見る視点ばかりでなく、農村を社会政策として、どう維持発展させていくのか、そうした新たな視点がぜひとも必要である。徳島県はとくに中山間地が多いだけに、急を要する課題と認識している。

 

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 随筆73 「ハングライダーとモトクロス

 三頭トンネルの開通と、徳島自動車道美馬インターの開設で最近の美馬町には、国道の沿線を中心に活気があふれている。県西部の交通の要衝として大きく変化しつつあることはうれしい限りだ。
この地域の歴史は古く、国指定史跡「段の塚穴」や「郡理廃寺跡」を見れば飛鳥・奈良時代から文化が発展し、大化改新の時代には郡衛がおかれていたことがわかる。 私もよく美馬町の全域を訪問させていただいたが、山間地ではとくに勾配が急で、びっくりするような斜面を土地の人達はいとも簡単に登り下りする。その見事なハンドルさばきに感心したことを思い出す。
 切久保、入倉、清田、丈寄、竜王山、惣後、藤宇、中村、野田ノ井などの山里では、時間が止まっているようで、お茶をいただきながらゆっくり話しができた。
  ブロイラー(養鶏)もだめ、葉タバコもあかん、高冷地野菜や花卉・花木栽培も収入が安定せん、と話しの内容は深刻なのだが、意外とのんびりしているのだ。それでも政治の話になるとどの人も一家言を持つ評論家となる。「仕事がないときは一日中家でテレビ見とるからなあ」「テレビ見るのが仕事やさかい、しょうないわな」「だから誰がどう言った、誰がこう言っとったわという情報はそのまま入ってくるんですわ」「なるほど。よう、わかりました」私は脱帽するばかりだった。
 私は衆議院で逓信委員をしている。よく委員会でも話題になることだが、確かに言論は自由であり、マスコミには報道の自由がある。何を言ってもよい。これは認める。しかし意図的に真実を加工しては真実とはほど遠い、あるいは真実とは逆の報道がされる場合どう対処すればよいのか。 公の電波を使ってそんなことをすれば、それはマスコミ自身の自殺行為となるのではないだろうか。とくにそれが個人のプライバシーを侵害するものであれば公器による犯罪ともなる。
その重い責任を自覚して真実と事実に徹した報道を心がけてもらいたいものだと強く思う。
とともに、マスコミ報道を見聞する国民の立場にも私は注文したい。報道をうのみにするのではなく、少し距離を置いてまず自分で考えて見ること。自分の判断で報道に接すること。自立した自分の意見を持つこと。国民自身がマスコミの報道を判断する見識を持つこと。
  経済の原則ではグレッシャムの「悪貨は良貨を駆逐する」が有名だが、マスコミと国民の間では「良貨は悪貨を駆逐する」そんなルール作りが自然にされることを私は望みたい。それこそ理想の民主主義国家だと思う。
 ところで最近の美馬町はハングライダーやモトクロスが盛んで若い人達の人気を集めている。大空を鳥のように自由に飛ぶ。私にはもっとシェイプアップしなければとても無理だろう。
 モトクロスはヤマハにいたころ、専用のバイク作りを間近かでみていただけに、より興味がある。私の高校時代の同級生・阿部光行君は毎年、美馬町の大会に出場しているが、引き締まった彼の身体をみると本当にうらやましくなる。

 

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 随筆74 「県南に高速道路をと森下元晴さん

 海部町靹浦。大敷網と呼ばれる大型定置網漁で有名な沿岸漁業の基地である。 最近は広域交流の拠点施設として整備された漁火の森,遊遊NASAに加え、大型定置網漁が体験できる体験学習船が誕生。靹浦近辺は新たな観光スポットとして人気を呼んでいる。
 靹浦には私もよく行ったが,狭い地域にびっしり風格のある格子戸の家が並んでいる。 豊かな漁村を象徴する家並みである。南町にあるとりわけ大きな家が森下元晴さんの御自宅である。いつも御母堂から親切に応対していただいたことを思い出す。
  森下元晴さんは大正11年4月12日生まれで東京農工大学(旧東京高農)を卒業し地元の町議会議員をしていたころ、中曽根康弘さんの目にとまり、昭和38年衆議院選挙に初出馬し、初当選した。
  この話はあまりにも有名だが、私は昭和55年、58年、61年、平成2年の4回,同じ選挙区で戦わせていただいた。定数5の中選挙区であったため私が初当選した昭和58年からはともに当選することができ、いつも「おめでとう、よかったね」と激励していただいたことを覚えている。
  本当にお人柄のよい人で私が初当選したときは、私の議員会館の部屋までお祝いに来て下さり「私も初当選の時はあなたと同じ40歳でした。なんでもわからんことがあったら、いつでも来て下さい。御相談に乗りますから」と兄のように親切にしてくださった。
 また「2回目の選挙が肝心ですよ。今から十分準備しておくことですよ」とそんなことまで心配していただいた。果たして2回目の選挙では1万票近くも減票し、私は支持者の皆様に本当に申し訳ないことをしてしまったのだが、今にして思えば森下さんの忠告を真剣に聞かなかった自身の不明を恥じるばかりである。
 森下元晴さんは自民党の国対委員長をしたり、厚生大臣をつとめられたが、まだこれからという時にあっさり政界を引退された。これには支持者も徳島県民もびっくりしたが、本人はひょうひょうとしたもので、その直後、東京便の飛行機に乗り合わせた私に「一つだけ心残りがあります。県南に高速道路をつくる。この構想をぜひ実現したかった」といわれた。
  私はとっさに思った。「確かにそうだ。森下さんはいつも言っていた。8の字構想では阿南から南が抜けてしまう。阿南から室戸、安芸を通り高知までつなぐ高速道路。これを作らなあかん」と。そして「わかりました。そのバトンを確かにお受けします」と私は心に誓った。
 地域高規格幹線道路の構想が発表され、徳島県南部と高知県東部の市町村長と議長さんが連係して建設促進期成同盟が結成された。私も進んで参加した。建設省の担当課長をしていた私の小学校時代の後輩から「たった今、阿南、安芸地域高規格幹線道路の指定が決定しました」の第一報が入ったとき、私は「これで森下さんの夢が実現する」と無性にうれしかった。
 県南の高速道路は現在日和佐町から着手されていて、夢が一歩一歩現実のものとなりつつある。と、ともに森下さんといつも話し合っていた「紀淡海峡大橋」も新しく策定された国土整備計画のなかに太平洋新国土軸として明記された。明石海峡大橋を超える世界第一の長大橋の完成が待ち遠しい。

 

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 随筆75 「軽トラックと石井清文さん」

 海南町は広い。海部郡のほぼ中央に位置し、東西18.5キロメートル、南北12.5キロメートル。その90パーセントは山地。海部川が町を縦断している。大里松原から浅川港そして八坂八浜の海岸線から海部川沿いに笹草、若松、樫ノ瀬、皆ノ瀬、平井を抜け、轟の滝に至る。笹草から相川沿いに進めば皆津に至る。明治32年浅川、川東、川上の3村が生まれ昭和30年にこの3村が合併して海南町になったのだが,今も旧村名で呼び合う人が多い。
 この広い地域を自分の家の庭のように走り回っていたのが、石井清文さんである。 私もよく同乗させていただいたが、いつも軽自動車のトラックだった。ちょこんと野球帽をかぶり照れ笑いされながら、一軒一軒、案内してくださった。軽トラックは農作業にも便利だし、どんな小さな山道も登っていける。農家の玄関まで入っていける。どこに行っても石井さんの顔を見ると「どうしょったんで、元気で」と声がかかる。
 真夏の太陽がカンカン照りつけるころ、私は石井さんの家に3泊し4日間2人で徹底的に町中を歩き続けたことがあった。石井さんの朝は早い。私達が出かけるころにはもう農作業を終えている。ムギワラ帽子に腰手ぬぐい、そしてスニーカー、当時の私の普段着に合わせて、石井さんも同じ格好で出発する。1時間も歩くともう汗がしたたり落ちる。
びしょびしょになった手ぬぐいを何度も絞って歩きに歩く。手ぬぐいは太陽に照り付けられてすぐ乾くが、だんだん塩分を含んでベトベトする。ころあいを見計らって谷川で顔を洗い、手ぬぐいをすすぐ。石井さんは近くに自生している山ブキで上手にコップを作る。「これで飲むとうまいですよ」と私にも勧めてくれる。なるほど、フキの香りが谷川の水にしみ込んで一段とうまさが増している。
 朝から夕方まで走りに走り、歩きに歩く。若い私がフラフラになっても石井さんはいつもニコニコしている。「ほんまに、よう知っていますね」感心している私に「海南町は私の庭みたいなものですから」と石井さんはこともなげに答える。公明党の町議会議員を永くつとめていた石井さんは、いつも「私は町の人全員の相談相手」と自分で自分に言い聞かせていたという。素晴らしいことだと思う。立派な心がけだと思う。そんな町議会議員ばかりになれば本当にすばらしい町になることだろう。石井清文さんの精神は今、弟の石井允智(よしさと)さんにひき継がれている。允智さんも公明党の町議会議員である。石井清文さんは、弟さんの話しによれば現在、病気静養中とのことである。一日も早い全快を心からお祈りしたい。

 

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 随筆76 「初質問となった圃場整備

 寒い。遊説車から出す手が凍りつくほどだ。暗闇の中にかがり火が浮かぶ。 田んぼの中に材木のヤグラが組まれ、勢いよく燃え上がる火が天をこがすばかりだ。 たくさんの人が集まっていた。「遠藤さん、待っとったで。早よう、あたらんかい。遊説の人も皆、降りてあたっていきなさい。早よう、早よう!!」支持者の皆さんの暖かい歓迎だった。
 日和佐町赤松。昭和58年12月、私が初当選させていただいた衆議院選挙の思い出である。
今もあの時の温かい人々の手のぬくもりを私は忘れない。
 翌年1月28日、徳島県土地改良事業50周年記念大会に衆議院議員になったばかりの私は、来賓で出席させていただいた。この席で土地改良事業の歴史を学ぶとともに、徳島県の水田の圃場整備が全国に比べて大変に遅れていることを知った。
  圃場整備は農業生産の基幹といえる。工業で言えば工場を作ることに当たる。 何故、徳島県は遅れているのか。私は徹底的に研究した。私なりに理解したことは(1)徳島県は中山間地が多い(2)中山間地も平地も採択基準が同じというのはおかしいのではないか(3)日本全体をみれば大変な東高西低で格差がありすぎる。(4)格差是正をはかるためにも中山間地に対する採択基準は緩和すべきだ。こんな方針で資料を集めた。
 そして3月10日衆議院予算委員会第5分科会でとりあげた。これが私の国会での初質問となった。圃場整備の格差是定を迫ると新聞も報道してくれた。以来、中山間地に対する採択基準は緩和され、徳島県でも各地で圃場整備が進むことになった。今は全国平均に近づく整備率になったと聞く。
  日和佐町の赤松地区でも、圃場整備事業が採択され、完成した。現在、土地改良事業完成を記念する大きな石碑が建立されている。当時の土地改良事業にたずさわった方々をはじめ、赤松地区の皆さんから感謝されたことも、きのうのことのように思い出す。土地改良事業は今後の農業を展望するにつけても、一段とその重要性を増している。土地という農家の私有財産を改良する事業に何故公金である税金を使うのか、という議論があることを私は充分承知している。
  しかし、農地を改良することは、自然環境の保全や豊かな農村づくりのための基礎的な社会資本の整備であることも知ってもらいたい。土地改良事業の推進のため、私は初質問の精神を貫き、今後も一生懸命に取り組みたいと決意している。

 

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 随筆77 「組合の皆さんと一緒に“朝立ち”

 北島町には繊維・化学などの工場が多い。どの工場にも母校の先輩や同級生あるいは後輩がいて、いつも親しいお付き合いをさせていただいている。ことに組合の皆さんには私の初出馬以来、御推薦をいただいている関係もあり、いつも暖かい御支援に感謝している。
 私が衆議院選挙に初出馬したのは昭和55年6月のことで、内閣不信任案が可決し、突然衆参同時選挙となった。衆議院はわずか7ヶ月での解散であり、誰も予期した人がなかったほどで、私などもまさか私自身が候補者になるなど夢にも考えたことがなかった。あまりにも突然のことで何もかもが生まれて初めての経験だった。
 うれしかったのは、公明党公認とともに民社党からも推薦をいただいたことだった。民社党からは当時の委員長だった佐々木良作さんが、わざわざ徳島まで駆けつけて下さった。私とともに街頭演説に立ち、若い私に「必ず勝ちましょう」と握手して下さり、集まった人々に熱っぽく、すばらしい演説をして下さった。ゼンセン同盟からは宇佐美会長が来て下さり、組合の幹部の人達を集めてゲキを飛ばして下さった。「遠藤さん、組合の幹部の皆さんはあなたの高校の卒業生が多い。あなた自身が訴えていけば、みんな動いてくれますよ」と激励して下さった。
 私は百万の味方を得た気持ちがした。工場の前を通るとき必ず組合に寄るようにした。皆さん、大きな拍手で迎えてくれた。2回目に通るときは組合員の皆さんを集めて下さり、挨拶させていただくこともあった。選挙の終盤戦になると、朝、工場の玄関の前に私とともに立って下さり、出勤する人達に訴えて下さる組合幹部の人達も出てきた。私達はこれを“朝立ち”と呼んだ。
 初めての選挙はそんな御苦労をいただきながらも次点に泣いた。「本当に申し訳ありませんでした。」とおわびすると「次回は必ず勝ちましょう」と激励してくださった。私は2回目の選挙以来連続5期、組合の皆さんの暖かい御支援で当選させていただいている。ありがたいことである。今も工場の前を通るたびに選挙のとき組合の皆さんと一緒に“朝立ち”した姿を思い出す。
 ところで、最近の北島町は、早咲きチューリップの産地形成に力を入れていて、毎年4月にはチューリップ祭りも開催される。県下で一番新しい県立北高校も誕生し、1年中温水プールが楽しめる施設もオープンした。大型のショッピングセンター開設も目白押しだ。工場の町から健康と活力にあふれる地方都市へと大きく変化しつつある。

 

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 随筆78 「レタスづくりにかける夢

 米や麦を中心とした水田酪農地帯から、露地野菜を中心とする園芸農業地帯へ。吉野町の農村はその姿を大きく変えてきた。
 そのきっかけとなったのが、30年前、9戸のタバコ栽培農家がレタスづくりに挑戦したこと。新聞をみて、レタスのことを知った人たちが「人にできるものが、俺たちにできないわけはない。もっとよいものをつくってみせる。」とチャレンジしたのだ。
 何度も失敗した。けれどもくじけなかった。昭和47年には冬レタスが、昭和52年には春レタスが農水省の産地指定を受けるまでになった。現在では栽培農家も250戸に増え、栽培面積も230ヘクタール、生産額は年間12億円に達している。県下一の生産量である。京阪神市場では「吉野レタス」の名で好評を博している。レタスづくりに挑戦して30年。今や高品質のブランド品にまで成長したのである。
 ところで農業政策は、土地改良事業に象徴される構造改善事業がまずあげられるが、それにも増して大切なのが営農政策、つまり整備された土地で何をつくるか、何をつくって収入を得るかである。
 農作物は市場で取り引きされるから、良いもの、希少価値のあるものでなければ高値がつかない。工業製品のようにコストの上に利益を乗せて定価をつけるわけにはいかないのだ。戦後の日本の農業を概観してみると、営農指導はなかなか難しく、成功例はあまり多くなかったのではないかと思わざるを得ない。営農指導を専門とする農業改良普及事務所の方々とお話しする機会も多いが、普及員の皆さんの献身的な御努力にもかかわらず、容易でないのが実情のようである。
 ある地域で成功すると、他の地域でも同じことをする。同じものをたくさん作ると価格は下がってしまう。この堂々めぐりが繰り返される。結局は、その地域でなければつくれないブランド品を創作していく以外にない。そうなると結局は地元の人たちの熱意に頼るしかない。他の地域ではいくらまねしてもできないものに仕上げること。これが農作物の個別化、つまりブランド品となるのだ。
 最近、漁業でも「関サバ」「関アジ」のように個別化されたブランド品が出回り始めた。釣り上げた漁師の名前や日時も入った商品まであるそうだ。
 農作物もコメの自由化以来、そんな傾向が出始めている。「吉野レタス」が今後も徳島県を代表するブランド品として、日本中で好評を博しつづけて欲しい。

 

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 随筆79 「タバコ、ミツマタ、ソバの花

 国道192号を西進すると、三好郡に入って最初に出会うのが三加茂町である。桜の花が美しいJR江口駅からしばらく走ると視界が一変して開ける。ショッピングセンターや、レストランが国道沿いにひしめき合う。三好郡のなかでも一番変化したのがこの界わいであろう。町は活気にあふれている。
 私にとって三加茂町といえば、何といってもタバコ、ミツマタ、ソバの花である。三加茂町の山間部は深い。町の中心部から加茂谷川沿いに入る道、JR江口駅から入る山口谷川沿いの道、そして、半田町から半田川や大藤谷川沿いに入る大藤地区への道と、どの道も三加茂町の山間地帯をくねくね曲がりながら、ときには激しく上下しつつどこまでも続いている。
 春も夏も秋も冬も私はよくこの山道を上り下りした。一軒一軒の農家を訪ね歩いた。その季節、その季節に思い出がある。なかでも忘れられないのが、タバコとミツマタとソバの花である。タバコは、平坦なところでも傾斜地でもまるで定規で測って植えたように、きれいな平行線を描いてどこまでも続いている。タバコの花も見事な平行線を描いて続く。緑の大きな葉っぱの真ん中に、垂直にピーンと立ったタバコのシンから、たくさんの花が咲き競う。白い花が多いが、たまに淡いピンク色のもある。
 ミツマタの花も白い。かれんな花だ。ミツマタの枝はどこの枝も三つに分かれている。その先っぽに小さな花をつける。冬場に訪れると農家の庭先にミツマタが干されている。これを釜ゆでにして皮をはぐ。皮から和紙がつくられる。紙幣の原料となる。
 ソバの花も白い。余りにも広い地域を小さな真っ白な花が埋め尽くしていて圧倒されたことがある。それは、見渡す限りが銀世界となったかのような光景だった。
 最近では、タバコもミツマタもソバも栽培面積が少なくなってしまったと聞く。あの白い花の風景はもう心の中に残る思い出でしかないのだろうか。山また山が連なる高地から眺めたのどかな山里の風景は今も私の心に焼きついて離れない。

 

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 随筆80 「超満員の会場から教育を考える熱弁

 井川町の人たちは選挙になると燃えに燃える。どの陣営も遊説車の後に10数台の応援団がつく。白いハチマキに白い手袋、どの人も身体を乗り出して声を限りに声援を送る。町の人たちも道筋に出て、盛大な応援合戦を競い合う。V字型に食い込む井内谷川の峡谷沿いの細道を上り下りする遊説車の長蛇の列は、一日中ひきもきらない。私もよくこの峡谷沿いの道を走ったが、必ず2度や3度は相手候補の遊説車と出会った記憶がある。
 井内谷地区には縫製や製材工場が多いが、遊説車が通ると窓を開けて、たくさんの人たちが手を振ってくれた。町に出るとどの商店からも人々が飛び出してきて握手してくれたことも思い出す。
 選挙が終わったあと、私はいつも考えていた。井川町の人達に喜んでいただけることをぜひとも実現したい、と。公明党では教育改革推進本部をつくり、全国各地で教育講演会や教育を考える会を開催していた。私も講師として、沖縄県那覇市や長野県上田市、埼玉県川口市、福岡県北九州市、鳥取県倉吉市に派遣され、期待される教師像や大学入試や高校入試のあり方に始まり、教育に関する様々な問題点を参加者とともに熱心に語り合ってきた。徳島県では徳島市と鳴門市で開催し、好評を博していた。
 “よし、次はぜひとも井川町で開催してみよう”そう決意した私は、迷うことなく実行に移した。講師は私のほか、東京から参議院議員の広中和歌子さんと衆議院議員の鍛冶清さんに出席してもらった。地元からは町の教育長が出席して下さった。人口が5000人ほどの町で開催するのは党としては初めての試みだった。党本部では誰もが心配していた。しかし、私には絶対に成功するとの強い自信があった。
 
平成4年10月31日、井川町のふるさと交流センターで教育を考える会は開かれた。会場は超満員である。どの人も真剣そのもので、講師の話に聞き入っている。やがて討論会に移った。会場から一斉に手があがる。どの人の質問も教育の本質に迫るものだった。広中さんや鍛冶さんが感動するほどの熱弁をふるう人もいた。熱弁が続き、定刻を30分ほど過ぎてしまったが帰る人は一人もいなかった。「きょうは本当によい会合でした。いい話を聞けて本当によかったです。」会場からも講師の方々からも御礼をいわれて、私は「井川町で開催して本当によかった」としみじみ思った。

 

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 随筆81 「道の駅は旅のオアシス

 藩政期から阿波と土佐を結ぶ要路の門戸として栄えてきたのが鷲敷町である。丹生谷一帯の行政・文化・経済の中心地でもあり、最近は阿南市や徳島市などに通ずる道路も整備され、人々の往来は一段とにぎやかさを加えている。
 国道195号線を行き来する人々のオアシスとなっているのが道の駅・鷲の里である。線路に駅があるように一般道路にも駅を。「道の駅」はそんな発想から生まれた。休憩のためのパーキングであることはもちろん、その土地の文化や歴史、名所や特産品などを紹介する情報交流の場でもある。
 その昔、東海道五十三次があった。これこそ道の駅の原型といえよう。もともとは道の駅が駅であり鉄道の駅は鉄道が開通してからのものにすぎないと私は思うのだが、いかがなものであろうか。
 それはさておき、四国でも道の駅の整備が進んでいることはうれしい。徳島県では貞光ゆうゆう館(貞光町)どなり(土成町)鷲の里(鷲敷町)宍喰温泉(宍喰町)の4ケ所。
 高知県では南国(南国市)美良布(香北町)大杉(大豊町)土佐和紙工芸村(伊野町)キラメッセ室戸(室戸市)大月(大月町)布施ケ坂(東津野村)ゆすはら(檮原町)すくも(宿毛市)四万十大正(大正町)の10ケ所。
  愛媛県では日吉村(日吉村)瀬戸町農業公園(瀬戸町)内子フレッシュパークからり(内子町)ふたみ(双海町)ひろた(広田村)マイントピア別子(新居浜市)の6ケ所。
 香川県では小豆島オリーブ公園(内海町)小豆島ふるさと村(池田町)ことひき(観音寺市)ふれあいパークみの(三野町)瀬戸大橋記念公園(坂出市)津田の松原(津田町)の6ケ所。
 以上26ケ所がすでに供用されている。
 私は平成11年2月17日、衆議院予算委員会第7分科会で四国に88ケ所の「道の駅」を整備することを提案したが、建設省によると現在供用されているものも含め、すでに44ケ所は完成の見通しであり、全国的にも倍増する計画があることから四国にはぜひとも88ケ所はつくりたいとのことであった。  私はこれを21世紀の四国の88ケ所にしたいと思っている。道の駅が地域と道路、道路と人を結ぶ旅のオアシスになるよう心から願っている。

 

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 随筆82 「淡路へ救援物資を」と埴渕一さん

 羽ノ浦町はキョーエイ代表取締役会長、埴渕一さんの出生地である。昭和3年11月13日、この町に生まれた埴渕一さんは、父・朝夫さんが創業した家業の呉服屋を県下最大のスーパーに仕上げた。
 私自身、大変親しくさせていただいているが、いつも純粋無垢で情熱にあふれた語り口に圧倒される。猛烈な勉強家で広く世間に知識を求めるとともにそれを実践し、血肉とされている。話をお聞きしているといつの間にか、2時間も3時間も経っていることが多い。
 何事もあやふやにすることが大嫌いで、誰にでも正論を真っ正面からぶつける。「そんなにはっきり物を言うと商売に影響があるのでは」などと心配する人もいるが、本人は全くおかまいなしで、いつもきっぱり断言する。しかも決断がまことに速い。迷うということがないのである。何故、迷わないのか私なりに分析してみると、この人の場合、判断の基準がいつも損か得かではなく、正か邪かにある。というより、正しいことを行っていれば必ず得をする。それが社会の法則であるという確かな経験則を、この人は持っておられるのだと私は思う。
 平成7年1月17日阪神・淡路大地震が起きた。翌日、私は海部俊樹元総理とともに淡路の被災地をお見舞いした。このとき救援物資を車に満載して「被災者の方々に届けて下さい」と申し出てこられたのが埴渕一さんだった。
 社員の方々に直接指揮され、車も運転手も救援物資も全て自ら用意して下さった。被災地に着き、海部さんにこのことを話すると「本当にありがたいことです。私から直接、兵庫県知事にお渡しします。埴渕さんにくれぐれもよろしくお伝え下さい」と大変に喜ばれた。救援物資は災害対策本部となった北淡町役場の玄関に積み上げられ、いあわせた兵庫県知事と北淡町長に直接手渡された。知事も町長も大変に感謝し、早速、役場の職員によって直接、被災者に届けられた。
 大震災のあと、私は2度ばかり北淡町を訪問した。さらに衆議院建設委員長として建設委員会のメンバーとともに阪神・淡路大震災の被災地を視察し、兵庫県知事や神戸市長をはじめ淡路島の町長さんたちから国への要望をお聞きした。どの方々からも「今回は民間の皆様から熱心な救援活動をいただき本当にありがとうございました」と感謝されたことを思い出す。
 被災した翌日という埴渕一さんの救援活動は誰よりも速かった。このことがきっかけとなり、多くの人々が大鳴門橋を渡って淡路の被災者に救援の手を差しのべたのだ。「困ったときはお互いさまですよ。人間として当たり前のことをしただけです」感謝の言葉を伝えると子供のように、はにかんだ埴渕さんの笑顔が今も忘れられない。

 

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 随筆83 「徳工ウェートリフティングと藤原八郎先生」

 藤原八郎さんは徳工・ウェートリフティング部の生みの親である。先生は大正13年7月5日山川町に出生し、昭和16年から昭和60年に退職されるまで、44年間一貫して徳島工業高校に奉職された。徳工の卒業生なら誰も知らない人はいない名物先生である。ウェートリフティング国際1級審判員、同国内特級審判員であり、平成5年10月の東四国国民体育大会では、ウェートリフティング会場となった藍住町体育館で、審判員として活躍されるお元気な姿に接した。
 私が高校生だったころの先生は威風堂々とした体格で腕の筋肉は隆々と盛り上がり、まるで仁王のようだった。同級生に木村忠雄君、一つ先輩に大松長勝さんというウェートリフティング部の選手がいて、私もよく練習風景を見に行ったことがある。大松長勝さんは、現在、連合徳島の事務局長として活躍され、私はいつもお世話になっている。
 重いバーベルをプレス、スナッチ、ジャークの型に合わせて気合いを入れて持ち上げる。ギリギリのところに挑戦する時は周囲の空気もピーンと張り詰める。顔が真っ赤になる。見る方にも自然に力がこもる。ピシッと決まると拍手したくなる。藤原先生の指導には定評があり、徳工から全国大会で優勝した選手が何人も出ている。徳工のウェートリフティングは今も昔も全国の注目を集めているのだ。
 練習が終わると、藤原先生の顔は実に人なつっこくなる。そんなところが魅力でもあった。  私は衆議院選挙に初当選した翌年(昭和59年)の正月に母校を訪れたことがある。先生は職員室におられた。ストーブで大きな餅を焼いていた。「まあ、食べていきなさいよ」「山川町からもってきたんじゃあ。うまいぞ」先生は餅に醤油をつけて再びストーブに乗せる。手なれたものだ。香ばしい匂いが漂う。「ホラホラ、早よう、早よう」進められるままに手にしたが、余りの大きさにびっくりした。わが家の鏡餅より大きい。その餅を食べながら先生は山川町のことをいかにも楽しげに語り続けた。
 自然があること。人情があること。コメがうまい。餅がうまい。「ワシの力の元は餅じゃよ。子供のころからよう食べたもんな」そんなことをいいながら仁王はワンパク小僧の昔をしのんでいるかのようだった。

 

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 随筆84 「吉野川にはカンドリ舟」

 私の国会事務所に掛け軸が一本かかっている。昭和59年6月、公明党青年局で訪中したおり、購入してきた安価な山水画だが、私は結構気に入っている。桂林地方の風景だろうか、断崖絶壁の山々を背に大河が流れ小舟が一つ浮かんでいる。老人が一人静かに櫓(ろ)をこいでいる。余りにも大きな自然のなかに余りにも小さな人間、悠久の時の流れに身を任せて大自然と一体となっている人間、この絵は小舟と老人を描くことによって全体を引き締めている。豆粒のように小さな舟と老人なのだが、いろいろと空想をたくましくさせてくれる。そこが気に入って、私はずっと掛け続けている。
 ところでふるさとの大河、吉野川にはなんといってもカンドリ(楫取り)舟が似合う。夕陽に染まる山々を背にして、川面にはカンドリ舟が浮かぶ。舟には老人が一人、黙々と鮎を追っている。これこそ吉野川の原風景だ。遠望するとまさに掛け軸の世界そのものとなる。
 カンドリ舟は吉野川を代表する川船である。船首と船尾を高く反らせているのは、急流に対応できるよう水切りをよくするためだと聞いたことがある。全長は6メートル強、最大幅1.4メートル、スギやヒノキ、ツガなどを材料にしてつくる。
 現在、この舟をつくることができるのは県下に2人しかいないそうだ。その一人の作業場が、三野町太刀野にある。太刀野は私も何回か訪問したことがあるが、河内谷川沿いに北上すると閑静な集落に出会う。そこが太刀野であり、その奥が太刀野山である。
 カンドリ舟づくりには特別の船釘が使われる。1隻に350本使うそうだ。心配なことは今春、最後の船釘職人が亡くなったこと。「在庫が切れたら、船造りも終わりや」という声が聞こえてくる。
 吉野川にはカンドリ舟。この風景をいつまでも伝えたいと思う。しかし、現実には大変に難しい。経済の論理ではなく別の論理が必要だ。伝統の技術を継承するためにも。残された時間はわずかしかない。

 

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 随筆85 「福祉は人、人は心と中村博彦さん」

 今年(平成11年)6月14日、中村博彦さんが全国老人福祉施設協議会会長に就任したことを祝賀するパーティーが東京で開かれた。野中広務官房長官はじめ多数の政財界の来賓が出席し、私も神崎武法代表とともにお祝いに駆けつけた。徳島県からは圓藤寿穂知事をはじめ大勢の方々が上京し「全国の会長が、わが県から誕生したことはうれしい限りです」と喜びを分かち合っていた。
 来年4月1日から介護保険制度がスタートする。在宅介護にしても施設介護にしても、社会全体で介護を支える仕組みをつくりあげなければ少子高齢社会の介護問題を解決することはできない。国会ではここ10年来、さまざまな議論を重ねたうえで介護保険制度の導入を決断した。
 私は永く厚生委員会理事をつとめ医療、保健、福祉、年金問題に取り組んできた。とくに宮沢、細川、羽田、村山内閣総理大臣からは社会保障制度審議会委員を委嘱され、介護保険制度の創設を提言してきただけにとりわけ関心が深い。初めての試みだけに、果たして介護保険制度がうまくスタートできるのかどうか、保険者となる全国の地方自治体の皆さんの御苦労はなみたいていではない。サービスを提供する当事者である老人福祉施設協議会やデーサービス協議会加盟団体の皆さんも、準備はしてきたものの心配はつきない。
 国としても万全の態勢を整えなければならない。ことに高齢者の保険料は是非とも軽減したい。その分、国庫負担を増大しなければならない。その財源をどうするか。頭の痛い問題ではある。とともに万が一にも、保険あって介護なしの地域があってはならない。日本全国どこに住んでいても介護のサービスが受けられるように施設やマンパワーを配置しなければならない。これは喫緊の課題である。中村さんはじめ関係者の皆さんの御努力に心から期待したい。
 ところで、中村さんは昭和54年12月19日社会福祉法人 健祥会を設立し、翌55年3月29日特別養護老人ホーム水明荘を落成、この小さな一歩から老人福祉の世界に飛び込んだ。以来20年。いつも心に刻み続けてきたのは「福祉は人、人は心」という父君の教えだった。父、中村輝孝さんは徳島大学につとめた教育者で、附属中学校長も併任されたことがある。昭和51年4月定年退官されたあと、健祥会の初代理事長に就任。いつもこの言葉を通して、草創の職員に福祉に携わる基本精神を教えられたという。
 今、吉野川を見下ろす川島城の隣にある健祥会本部の広場には、この言葉を刻んだ中村輝孝初代理事長の胸像が建立されている。