水の都・徳島市を代表するのが新町川であろう。眉山の緑とともに市の中心部をゆったりと流れるこの川の変わらぬ風情は徳島っ子の誇りでもある。近年は吉野川からの分水ポンプが作動して浄化が進み、子魚がスイスイと泳ぐ姿も見られる。 |
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思い出2 「眉山は心の座標軸」 眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 |
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思い出3 「野球に明け暮れた蔵本駅前広場」 JR・蔵本駅の駅前広場は、今は立派な駐車場に様変わりしたが、私の子供のころは、それはそれは広い格好の遊び場だった。中央に2つの樹木の植わった公園があり、周囲は広場だったと記憶している。その一番西の隅が、私達の“野球場
”だった。野球といっても今のようにユニホームやグローブなどはそろえられない。バットとボールだけの至極簡単なもので、ボールはどこにでも売っているゴムマリだ。
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随筆4 「質実剛健の県工気風」 今はすっかり住宅地帯になったが、私達の学んだ時代の徳島県立徳島工業高校は閑静な田園のなかにあった。田宮街道沿いに重厚なたたずまいの木造校舎が建ち並び、裏側に広い広い運動場が高いポプラ並木の果てまでつづいていた。
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随筆5 「計算尺と久保駿一郎先生」 県工といえば重量挙げにテニスと計算尺といわれた時代があった。いずれも全国優勝の経験がある。 |
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随筆6 「天際(そら)に流るる吉野川」 全長194Km。四国山脈の山ふところに抱かれた高知県土佐郡本川村に流れを発し、徳島平野を東西に突っ走る吉野川は四国第一の大河である。
♪千古の姿洋々と 天際(そら)に流るる吉野川 その雄大の精神(こころ)もて 磨け我等の魂(たま)と技術(わざ) おお青春の意気ミ(たか)く わが母校(県立徳島工業高校)では校歌に、こう吉野川を歌っている。小学校から中学校そして高等学校の時代も吉野川は、私にとって身近な生活の舞台であり、その雄大な眺めは、少年の心に大きな希望の光を灯してくれたような気がする。
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随筆7 「ああ国鉄・鍛冶屋原線」 今はJRとなったが、昔の国鉄に鍛冶屋原線というのがあった。当時は板西駅といったが、今の板野駅を起点に、犬伏ー羅漢ー神宅ー鍛冶屋原といった駅々をつないで走るローカル線中のローカル線だった。むろん単線で、はじめのころはデゴイチが走った。あとになってディーゼル車がいつも一両か二両編成で、のこのこ走っていたように記憶している。
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随筆8 「陸の孤島・木屋平村に救援物資を運ぶ」 剣山の山ふところに抱かれた木屋平村を初めて訪れたのは、昭和51年10月。台風17号で穴吹川がはんらん、穴吹町古宮地区に大規模な土砂崩れがあった直後のことである。
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随筆9 「山が動く!! 半田町大惣へ」 「山に亀裂が入っているんですよ」「杉の大木が根こそぎ倒れ ています」「山がゴォーッ、ゴォーッと動いているんです。この
まま放っておいたらいつ大災害が起きるかわかりません」。── 公明党半田町議の林武次さんからそんな報告が県本部に入ったのは昭和57年7月のことだった。
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随筆10 「祖谷の山にうれしい“オシメ ”とこいのぼり」 “阿波路はすべて山の中であった ”──この20年間、徳島県をすみからすみまで歩き続けてきた私の実感である。
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随筆11 「秘境に都会育ちの花嫁さん」 西祖谷山村尾井ノ内。海抜700メートル。大歩危から祖谷に入るかつての有料道路のトンネルの上にある。今でこそきれいな道路が抜けたが、数年前までは、ウサギ道と呼ばれるほど曲がりくねった小道を上り下りしなければならなかった。 |
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随筆12 「鳴門の海に描く徳島の未来図」 阿波と淡路の はざまの海は 小学校の唱歌にも歌われ続けてきた鳴門海峡には今、全長1629メートルの大鳴門橋がかかっている。淡路島の向こうには、全長3910メートル世界一のつり橋である明石海峡大橋も完成し、神戸と鳴門は高速道路で直結。バスで1時間半という時代になった。
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随筆13 「懐かしき藍水苑の出会い」 ここに一枚の写真がある。昭和53年8月13日、加茂名中学校の同窓生が卒業20周年を記念して集まった写真である。場所は徳島市名東町の藍水苑。眉山の緑をバックに懐かしい顔が並んでいる。 私達の時代の加茂名は小学校と中学校が同一学区という事情もあって、同級生の全員が小学校以来、9年間、どこかで同じクラスとなっている。そんなわけでクラス別の同窓会というものはない。300人足らずの卒業生は互いによく顔を知り合っている関係から、同窓会には1組から6組まで全員が昭和33年度卒業生という形でつどい合うことにしている。
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随筆14 「よく遊びよく学んだ加茂名小時代」 流れも清き袋井の 今も歌い継がれているわが母校・加茂名小学校の校歌である。校舎と運動場の間を流れる袋井用水は、泉が枯れ、下水のようになってしまったが、私達のころは、校歌のとおり青々とした水が豊かに流れていた。夏でも冷たいほどで、運動のあとなど水に飛び込むと震えあがってしまうほどだった。 |
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随筆15 「牟岐へ雨中サイクリング」 今はJR・牟岐線も阿佐海岸鉄道で高知県甲浦駅まで延長されたが、高校生のころは牟岐駅が終着駅だった。
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随筆16 「開発か自然保護か 揺れた橘湾」 橘湾というと、小学校の遠足で津之峰に登った日のことを思い出す。春先の暑い日だった。石灰質の白い岩膚に「サンキラ」の緑が印象的だった。徳島では「かしわ餅」にこの「サンキラ」の葉を使う。 |
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随筆17 「眉山西部公園とバレーボール特訓」 加茂名中学校の運動場は小川一つを隔てて眉山西部公園に続いていた。当時、運動場の周囲には人家もまばらで、見渡す限り、田んぼや畑が広がっていた。小さなあぜ道を抜けてよく西部公園まで登ったものである。 |
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随筆18 「忘れ得ぬ祖谷の味、ソバと“デコ回し”」 剣山のふところに抱かれた祖谷の良さは、1日や2日の観光旅行ではわかるまい。できれば1週間、短くても3日間ぐらいの日程をとって泊まり込みで祖谷を訪問することをお勧めしたい。
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随筆19 「今は昔、田宮と矢三の麦踏み風景」 私達が県立徳島工業高校に通っていたころの田宮や矢三町は見渡す限り田園が広がっていた。ヒバリのさえずる春は、馬や牛がのどかに「しろかき」をする風景があった。水の張られた田ではカエルのコーラスが夜中まで聞こえた。家族総出の田植えのにぎやかなことといったらなかった。
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随筆20 「夢まぼろしの袋井用水」 15年間の県外での生活を終え、ふるさと徳島に帰った私は、昭和51年3月、庄町4丁目に、妻と2人で新居を構えた。新居といっても二戸一の民間アパートである。
庄町は母校である加茂名小学校や加茂名中学校のあるところで、同級生や知人も多く、私にはもともとなじみの深いところだった。その点、東京生まれで徳島は生まれて初めての妻にとっては心配もあったろう。が、それは全くの紀憂に過ぎなかった。アパートの隣人は皆、気安い人達ばかりで、1ヶ月もすると、10年の知己でもあるかのように気楽に阿波弁で会話ができるまでになっていたのである。
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随筆21 「たくましい商人の街・船場」 船場は私の生まれ故郷である。二歳のとき太平洋戦争による徳島大空襲で船場の家は焼け落ちてしまった。 小泉周臣氏の著による「船場ものがたり」(徳島市民双書・九)には、巻末の船場町家並図に大正初期のものがあり、ここには、はっきりとわが家が示されている。211ページに恵西自転車店の記載があるが、私の父はこの屋号で自転車店を経営していたのである。父母から聞かされた懐かしい家並みも見事に再現されており、私としては生まれ故郷の街の姿を、あれこれ連想するばかりである。
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随筆22 「大歩危小歩危への旅」 ドライブイン「まんなか」から遊覧船が出ている。右に左に見事な舵さばきを見せながら船頭さんが、「大歩危小歩危」の見どころを語ってくれる。なかなかの名調子。私は東京や大阪からのお客さんには、きまってこの遊覧船を案内することにしている。
春はつつじの薄紫、夏はみずみずしい緑、そして秋は赤や黄の紅葉が燃え立つばかりに美しい。満山をおおう天然の色彩が岩と水に調和して日本を代表する渓谷の美をかもし出す。そんな大歩危小歩危の船下りは、いつ訪れても心踊るものがある。
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随筆23 「鴨島菊人形と江川遊園地」 秋の花は菊である。 ところで、「菊作りは土作り」といわれるように菊を愛し、菊を作ろうという方々は、まず、土作りに、細やかで粘り強い情熱を傾けてこられた。はじめに山へ入ってクヌギの落ち葉をかき集める。カサカサに乾いた落ち葉を2年間、庭に貯えておき、こなごなにくだいて腐葉土や砂を加え、適度に混ぜ合わせる。その土をさらに、ふるいにかけてきめの細かな土を作るという具合だ。この土にさらにたい肥や油カスなどを加え、育てようとする菊に見合う“土”を作るのである。
私には菊作りの経験がないので、聞きかじりなのだが、ともあれ“土作り”には長年の努力と情熱が込められていることは確かだ。
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随筆24 「少年のころの楽園蔵本」 蔵本は2歳から16歳までの多感な少年時代を送った懐かしい土地である。太平洋戦争の徳島大空襲で西船場の家を焼かれた私達は、蔵本元町2丁目五番地に移住したのであった。
今もはっきりおぼえているのは、大きなリュックサックを背負って父が外地から復員してきた日のことである。庭の玉砂利をサクサクと踏んで帰ってきた。この日を母をはじめ家族全員がどんなにか待ちわびていたことだろうか。当時3歳だった私だが、その光景だけは今も脳裏に焼き付いている。
その次に覚えているのは、マラリアの高熱にうなされている父の上にふとんを何枚も重ね、さらにふとんの上に私が重しとして乗っかかっている光景である。東南アジアのジャングルを生命からがら逃げ帰ってきた父の唯一の土産がこのマラリアだった。“寒い寒い”という父に子供の私ができるのは、これぐらいしかなかった。
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随筆25 「吉野川橋と水上飛行機」 私は昭和51年3月、15年ぶりに、ふるさと徳島へ帰った。その時の第一印象は、どこへ行っても、恐ろしいほど昔のままの姿が残っていることだった。まず高徳線のディーゼル車と線路そして国鉄の駅々が、昔のまんまの姿だった。頂上のあたりが少々にぎやかになっているとはいえ、眉山も城山も昔のまんまだった。ことに蔵本元町の商店街や庄町の通りは、まるで時代劇のセットの中に帰ってきたかのような思いがするほど昔のまんまだった。 |
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随筆26 「シャクナゲとミカンそして佐那河内米」 朝起きると、眼下に雲海が広がっていた。夜来の雨もやみ、山々を包んでいた霧が晴れていくと、そこには淡いピンク色をした花々が、におうように咲き誇っていた。シャクナゲの花であった。 |
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随筆27 「塩田跡に美しい学園都市」 鳴門といえば渦潮と塩田を思い出す。渦潮は昔のままだが、塩田はすっかり姿をかくしてしまった。今の小鳴門橋のたもとには見事な入浜式の塩田が広がっていた。小鳴門橋を渡った高島あたりも見渡す限り塩田だった。 |
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随筆28 「四国東門も今は昔」 その昔、淡路島は“阿波路島”と書き、京阪神から、阿波の国、つまり徳島県へ行く道しるべだったという。明石海峡大橋の開通で便数が減ったとはいえ、今も淡路島沿いの海路では、1日に何回もフェリーや高速船などが関西と徳島を直結している。 |
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随筆29 「関西で活躍する徳島県人」 中国と日本が一衣帯水の国であるように、関西と徳島は、まさに一衣帯水。経済的な交流はいうに及ばず、人的交流の面においても親子か親せきの関係にある。 |
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随筆30 「大坂峠と瀬戸内海 」 阿波から讃岐への道は海沿いに走る国道11号を除くと、全てが阿讃山脈を越えていく山あいの道である。なかでもJR・高徳線の走る大坂峠の道は徳島市生まれの私には一番なじみ深い。 |
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随筆31 「渭東は仏壇と鏡台の町 」 渭東は仏壇と鏡台の町。徳島市の地場産業といえば、まず木工業である。ことに福島橋を東に渡った福島・安宅・大和・住吉の各町、いわゆる「渭東地区」は木工業者が軒を並べていて、町全体に木の香と強い塗料のにおいが漂っていた。今はかなりの工場が郊外に移転したが、今もこの地で木工業を続けていらっしゃる方々は多い。 |
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随筆32 「木材団地になった津田海岸 」 津田の海岸といえば、海水浴を思い出す。徳島市内では一番よい遠浅の海岸だった。毎年、夏になると市民がどっと繰り出した。徳島市内からバスで行くと、今の昭和町あたりから一面に入浜式の塩田が開けていた。この塩田は後に効率のよい流下式塩田へと切り換わるのだが、広々とした入浜式塩田で、働く人の姿が白い大地に黒点を落としたように見えたのが、今も印象に残っている。 |
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随筆33 「時代を写す徳島の顔、徳島駅 」 JR・徳島駅に降り立つと、眉山の緑をバックに、ワシントンヤシがそそり立っている。いかにも南国情緒豊かなこの風景が私は好きだ。 |
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随筆34 「南海に浮かぶ伊島の心暖かき人々 」 徳島県の東端・蒲生田岬のその先にポツンと浮かんでいるのがササユリで知られる伊島である。戸数は約百戸。ほとんどが漁師である。太平洋の黒潮を真っ正面から受けるこの島では、港の近辺に家々が集まり、土地にへばりつくように軒を寄せ合っている。
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随筆35 「徳工機械科と中西芳男先生 」 質実剛健は、私の学んだ徳島工業高校の当時の校風でもあった。工業立国の時代に、学力検査は勿論、身体検査も受けて、入学してきた生徒は、心身共に優れ、機械科は特に難関であった。 |
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随筆36 「徳島大学に法文学部を」 キャンパスを市民に開放した大学祭が今年も行われた。私も例年、出席させていただいているが、常々思うことは徳島大学に法文学部あるいは政経学部をぜひ開設してほしいということである。 |
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随筆37 「強者どもの夢の跡、勝瑞城」 私の本籍地は藍住町の勝瑞字幸島。決まって「いいところですね」といわれる。なかには「勝利の瑞相がする幸せの島ですね」などと注釈されることもある。 確かに四国第一といわれる徳島平野の中心に位置する勝瑞は肥沃な土地に恵まれ、生産物も豊富である。交通の便もよく、将来の発展が望まれる景勝の地といえよう。先の先の話だが鳴門の本四架橋に、四国新幹線が走るとすれば新徳島駅は、このへんになるかも知れない。もはや人口過密の徳島市内に新幹線を通すことはかなりの無理を伴うからである。 |
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随筆38 「明治の青年、伊座利の大地鉄蔵さん」 眼下に太平洋を見はるかす由岐町伊座利の海は、徳島の海岸線には珍しく男性的な力感にあふれている。国道55号線を阿南市福井町から左に折れトンネルをくぐり急な山道を上りつめると、視界がパッと開ける。その海が伊座利の海だ。緑の松が生い茂る断崖絶壁の向こうに果てしなく青い海が広がっている。その雄大な景観は、一介の青年にも広大な夢とロマンをその心に湧き立たさずにはおかない。そんな迫力がこの海にはある。 |
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随筆39 「藍住町歴史館になった奥村家」 青は藍より出でて藍より青し。 藍なしでは徳島の歴史は語れない。私が衆議院選挙に当選した直後、初当選させていただいた御挨拶に奥村家を訪問したことがある。 |
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随筆40 「森宮九十男先生と岸田義市先生」 加茂名を語るとき、忘れることができないのは森宮九十男先生と岸田義市先生である。両先生とも加茂名での奉職が長く、森宮先生は加茂名中学校の校長を最後に定年退職し、私立の名門・生光小学校の校長としても活躍された。岸田先生もまた加茂名小学校の校長を歴任され、助任小学校校長を最後に定年退職し、徳島市中央公民館に奉職されていたが、すでに故人になられた。 |
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随筆41 「徳島城に天守閣を」 どこの国どこの地域にも、その国、その地域ならではの”顔”がある。象徴といおうか、味といおうか、お国ぶりを濃縮した形で示してくれる建造物が必ずあるものだ。
中国なら万里の長城。かつて毛沢東が「長城に至らずんば汝好漢にあらず」と歌ったこの長城に私も訪れたことがあるが、まさに百聞は一見にしかずで、中国民衆の母なる大地の如き悠久さに圧倒される思いがした。月から見える地上最大の建造物といわれる長城を一つ一つレンガを重ねて手づくりで作っていくというこの構想の雄大さは、一体何と表現すればよいのだろうか。まして、実際に作りあげた人々の血と汗と涙の労苦を何と表現すればよいのか。私は言葉を失ったものである。
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随筆42 「剣山山頂から見たふるさとの山河」 私が剣山に初めて登ったのは中学3年生の夏休みであった。級友の粟飯原清治君ら3人で出かけたのだが、運動靴にナップザック一つという軽装だった。当時の私は山といえば眉山を連想するくらいで、剣山がどれほど高い山であるか、想像もできなかった。
標高1955メートル。県下で一番高い山であるということは知っていた。その山に登るというだけで心はずむものがあった。蔵本駅から汽車で穴吹駅へ。そこからバスで木屋平村に入り、山道を4時間くらい歩いたように思う。 |
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随筆43 「“ミナミガタ”の心暖かき人々」 行けども行けども山また山が続く。那賀川沿いの国道195号を上ると、丹生谷の町が数珠つなぎにつながっている。阿南市から鷲敷町、相生町、上那賀町、木沢村、そして木頭村はもう徳島県の果て。四っ足トンネルを抜けると高知県である。 |
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随筆44 「白雪の中に緑のエンドウ」 南国・徳島には珍しい大雪だった。昭和56年1月のことである。私は町会議員の多田勝美さんとともに阿波町の支持者宅を年始のあいさつに駆け回っていた。 |
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随筆45 「全力投球の美、池田高校の優勝」 もう一昔前の話になってしまったが、今も心に残る痛快事は池田高校の優勝であろう。甲子園を若人の熱と力で沸かせた池田の健闘は、あのさわやかイレブンの初印象を何百倍にもして再現してくれた。 |
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随筆46 「郷愁誘う美郷のホタル」 美郷村ー美しい響きをもった山里である。剣山の山ふところに抱かれたこの村を初めて訪れたのはもう20年ほど前のことであろうか。漆黒の闇の中を神秘的な光が一筋、二筋、美しい孤を描いていた。長く都会に住んでいた私は一瞬その美しさに見とれてしまった。
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随筆47 「宍喰町久尾の懐かしい人々」 徳島県の南端にある宍喰町から山路に入り、くねくね折れ曲がった道の終点にあるのが、宍喰町久尾。今は、戸数も数えるばかりになってしまったと聞くが、私にとっては忘れることのできない懐かしい山里である。 |
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随筆48 「中国に贈った阿波踊り竹人形」 阿南市新野町は、阿波踊り竹人形の出生地である。阿波踊りのしなやかな身ぶり手ぶりを小さな竹の枝ぶりで巧妙に表現したこの竹人形は郷土のお土産品のなかでは異色の存在だろう。 |
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随筆49 「のどかなウチノ海のアジ釣り」 急流逆巻く鳴門海峡のすぐ隣に、鏡のように静かな内海がある。ウチノ海である。本四道路からも眺められるが、私は、かつての有料道路の頂上付近からの眺望が好きだ。ことに夕陽のころは絶景である。 |
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随筆50 「夏の日のコンニャク橋」 徳島県出身の写真家・三好和義さんの写真集にコンニャク橋を背にした麦わら帽子の少年が写っている。 |
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随筆51 「青い目の人形・アリスの里帰り」 鮎喰川の清流を逆上ると、緑の山々に囲まれた集落が一つまた一つと現れる。毎年植樹祭が行われる森林公園や四国一泉質がよいと評判の神山温泉にも私はよく出かけるが、神山町と聞けば、真っ先に思い出すのが、青い目の人形・アリスちゃんである。 |
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随筆52 「第九初演の地・板東のドイツ村」 年末に「第九」を聴くことが、このところ日本の風物詩となったようである。全国どこの都市でもそんな演奏風景が見られるようになった。 |
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随筆53 「吉野川第十堰と青山士さん」 吉野川第十堰の改築計画が全国的な話題となっている。建設省や徳島県は、抜本的な治水事業として現在の固定堰を可動堰に改築する計画を進めている。ところが住民は、計画の進め方が一方的で自分たちの意見が反映されていない、従って住民投票によって計画の是非を住民に聞くべきである、と訴えているのである。 |
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随筆54 「昔懐かし立会演説会」 衆議院選挙が中選挙区制であったころ、立会演説会があった。徳島選挙区は定数5。いつも10人ほどの候補者があった。その候補者が二組に分かれて、県下各地で開かれる立会演説会に出席する。 |
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随筆55 「番茶づくりは炎天下の労作業」 那賀川の中流に位置する相生町は、相生茶で知られる番茶の生産地として有名である。昔はどこの家庭でもお茶といえば番茶であった。今は、番茶を知る人も少なくなってしまった。それでも番茶の効用は再認識されているようで、乳児にもよいという話を新聞で読んだことがある。
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随筆56 「漆黒の山里に光の海」 冬の陽は短い。午後7時ともなれば、山里では漆黒に包まれる。 |
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随筆57 「一脚に座って教育談義」 今は故人になってしまったが、市場町に松村春男さんという公明党町議会議員がいた。私にとっては恩人ともいうべき先輩だった。
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随筆58 「寒風に干柿のスダレ」 貞光町から真っ暗な山道を車は走り続けた。曲がりくねった道、道幅も狭い。車は一層スピードを上げる。「大丈夫ですか」思わず声をかける。「任しといて。ここは自分の庭みたいなもんですきに」。 車が止まったのは、一宇村大佐古。剣山はもう、すぐそこだ。村議会議員の大森利香さんが「皆待っとるでよ。早よう入りなさい」と自宅に案内してくれる。会場は、はちきれんばかりの人だ。拍手と歓声そして候補者の私を励ます歌声が、夜空にこだましたー。
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随筆59 「三頭トンネルが開通」 平成9年3月30日、待望の三頭トンネルが開通した。私も開通式に出席し、テープカットさせていただいた。美馬町と坂出市を結ぶ国道438号は、これまで未通の国道だった。徳島と香川の県境、寒風越近辺が未通だったからである。 |
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随筆60 「寒波で全滅したミカン」 季節外れの異常な寒さだった。朝起きたら、わが家でも、戸外にある温水器が、凍りついていた。水管が破裂し、流れ出た水が即座に氷となってしまったのだ。
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随筆61 「ブナを守れ!しもあれ国有林へ」 昭和60年4月12日、公明党にジャパングリーン会議か発足した。初代議長は参議院議員の多田省吾さん。行動の人だった。私も発足式以来、お供して視察にシンポジウムに申し入れに同行させていただいた。
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随筆62 「たらいうどんと三木武夫さん」 鴨島町から土成町を抜け、香川県白鳥町に至る国道318号は県境に鵜田尾トンネルが開通してずいぶん便利になった。私もよく利用させていただいているが、奥宮川内の渓谷は四季おりおりに豊かな表情を見せてくれる。春は桜並木がダムの湖畔に万朶のにぎわい。秋は満山紅葉に染まる。
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随筆63 「少年剣道と稲木紀一さん」 国会の私の事務所は初当選以来、ずっと変わらない。東京都千代田区永田町2−1−2、衆議院第二議員会館の734号室である。 |
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随筆64 「檜瑛司さんと創作舞踊」 JR板野駅の駅前に小さな記念館がある。徳島が生んだ創作舞踊家・檜瑛司さんが子供達のために収集した童謡などの作品を展示した資料館である。
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随筆65 「地方自治は民主主義の学校」 那賀川町といえば、すぐ思い出すのが、前町長の小泉隆一さんである。小泉さんはもともと那賀川町役場の職員だったが、公明党公認で町議会議員を4期務め議長も経験された。その後、周囲から強く推されて助役として活躍したあと町長を3期つとめられた。
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随筆66 「ワサビ出荷組合と三木申三さん」 車が通る道がない。だから歩く。おとなも子供も、おじいちゃんもおばあちゃんもみんな歩く。買い物も全部自分で運ぶ。テレビや冷蔵庫は背負って運ぶ。平らなところはまだいい。立木につかまりながら下りる急傾斜地は大変だ。 |
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随筆67 「未来をひらく空の玄関」 金帰月来という言葉がある。毎週金曜日に選挙区に帰えり、月曜日には国会に来るという意味のようだ。
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随筆68 「氷点下、暗闇のなか歩き続ける」 上勝町八重地。初めて衆議院選挙に出馬したとき、私はこの土地にあった小さな旅館で遊説の第一夜を過ごした。生まれて初めてタスキをかけ、大きなリボンをつけて少々緊張気味の私を土地の人達が暖かく歓迎して下さった。 |
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随筆69 「「虹をつかむ男」の舞台に」 正月映画といえば御存知「男はつらいよ」。ふうてんのとらさんとまわりの人達がぶつけ合う赤裸々な人間味とちょっぴり悲しいロマンスが毎年日本人の心を暖かくした。
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随筆70 「美馬中央橋と佐藤藤太さん」 貞光町と美馬町を結ぶ美馬中央橋。この橋を見るたびに佐藤藤太さんのことを思い出す。佐藤さんは貞光町の繁華街でハンコ屋さんを営みながら、公明党の町議会議員をされていた。
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随筆71 「蛙の子は蛙」 私の手元に衆議院議長をつとめた秋田清さんと、副議長をされた秋田大助さん父子二代の政治記録を綴った立派な写真集がある。 |
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随筆72 「四国第一の清流・穴吹川」 剣山から木屋平村を経て、穴吹町古宮を通って吉野川に注ぐ穴吹川が、今年も四国第一の清流となった。 |
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随筆73 「ハングライダーとモトクロス」 三頭トンネルの開通と、徳島自動車道美馬インターの開設で最近の美馬町には、国道の沿線を中心に活気があふれている。県西部の交通の要衝として大きく変化しつつあることはうれしい限りだ。
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随筆74 「県南に高速道路をと森下元晴さん」 海部町靹浦。大敷網と呼ばれる大型定置網漁で有名な沿岸漁業の基地である。
最近は広域交流の拠点施設として整備された漁火の森,遊遊NASAに加え、大型定置網漁が体験できる体験学習船が誕生。靹浦近辺は新たな観光スポットとして人気を呼んでいる。
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随筆75 「軽トラックと石井清文さん」 海南町は広い。海部郡のほぼ中央に位置し、東西18.5キロメートル、南北12.5キロメートル。その90パーセントは山地。海部川が町を縦断している。大里松原から浅川港そして八坂八浜の海岸線から海部川沿いに笹草、若松、樫ノ瀬、皆ノ瀬、平井を抜け、轟の滝に至る。笹草から相川沿いに進めば皆津に至る。明治32年浅川、川東、川上の3村が生まれ昭和30年にこの3村が合併して海南町になったのだが,今も旧村名で呼び合う人が多い。
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随筆76 「初質問となった圃場整備」 寒い。遊説車から出す手が凍りつくほどだ。暗闇の中にかがり火が浮かぶ。
田んぼの中に材木のヤグラが組まれ、勢いよく燃え上がる火が天をこがすばかりだ。 たくさんの人が集まっていた。「遠藤さん、待っとったで。早よう、あたらんかい。遊説の人も皆、降りてあたっていきなさい。早よう、早よう!!」支持者の皆さんの暖かい歓迎だった。
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随筆77 「組合の皆さんと一緒に“朝立ち”」 北島町には繊維・化学などの工場が多い。どの工場にも母校の先輩や同級生あるいは後輩がいて、いつも親しいお付き合いをさせていただいている。ことに組合の皆さんには私の初出馬以来、御推薦をいただいている関係もあり、いつも暖かい御支援に感謝している。
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随筆78 「レタスづくりにかける夢」 米や麦を中心とした水田酪農地帯から、露地野菜を中心とする園芸農業地帯へ。吉野町の農村はその姿を大きく変えてきた。 |
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随筆79 「タバコ、ミツマタ、ソバの花」 国道192号を西進すると、三好郡に入って最初に出会うのが三加茂町である。桜の花が美しいJR江口駅からしばらく走ると視界が一変して開ける。ショッピングセンターや、レストランが国道沿いにひしめき合う。三好郡のなかでも一番変化したのがこの界わいであろう。町は活気にあふれている。
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随筆80 「超満員の会場から教育を考える熱弁」 井川町の人たちは選挙になると燃えに燃える。どの陣営も遊説車の後に10数台の応援団がつく。白いハチマキに白い手袋、どの人も身体を乗り出して声を限りに声援を送る。町の人たちも道筋に出て、盛大な応援合戦を競い合う。V字型に食い込む井内谷川の峡谷沿いの細道を上り下りする遊説車の長蛇の列は、一日中ひきもきらない。私もよくこの峡谷沿いの道を走ったが、必ず2度や3度は相手候補の遊説車と出会った記憶がある。 |
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随筆81 「道の駅は旅のオアシス」 藩政期から阿波と土佐を結ぶ要路の門戸として栄えてきたのが鷲敷町である。丹生谷一帯の行政・文化・経済の中心地でもあり、最近は阿南市や徳島市などに通ずる道路も整備され、人々の往来は一段とにぎやかさを加えている。 |
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随筆82 「淡路へ救援物資を」と埴渕一さん 羽ノ浦町はキョーエイ代表取締役会長、埴渕一さんの出生地である。昭和3年11月13日、この町に生まれた埴渕一さんは、父・朝夫さんが創業した家業の呉服屋を県下最大のスーパーに仕上げた。
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随筆83 「徳工ウェートリフティングと藤原八郎先生」 藤原八郎さんは徳工・ウェートリフティング部の生みの親である。先生は大正13年7月5日山川町に出生し、昭和16年から昭和60年に退職されるまで、44年間一貫して徳島工業高校に奉職された。徳工の卒業生なら誰も知らない人はいない名物先生である。ウェートリフティング国際1級審判員、同国内特級審判員であり、平成5年10月の東四国国民体育大会では、ウェートリフティング会場となった藍住町体育館で、審判員として活躍されるお元気な姿に接した。
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随筆84 「吉野川にはカンドリ舟」 私の国会事務所に掛け軸が一本かかっている。昭和59年6月、公明党青年局で訪中したおり、購入してきた安価な山水画だが、私は結構気に入っている。桂林地方の風景だろうか、断崖絶壁の山々を背に大河が流れ小舟が一つ浮かんでいる。老人が一人静かに櫓(ろ)をこいでいる。余りにも大きな自然のなかに余りにも小さな人間、悠久の時の流れに身を任せて大自然と一体となっている人間、この絵は小舟と老人を描くことによって全体を引き締めている。豆粒のように小さな舟と老人なのだが、いろいろと空想をたくましくさせてくれる。そこが気に入って、私はずっと掛け続けている。
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随筆85 「福祉は人、人は心と中村博彦さん」 今年(平成11年)6月14日、中村博彦さんが全国老人福祉施設協議会会長に就任したことを祝賀するパーティーが東京で開かれた。野中広務官房長官はじめ多数の政財界の来賓が出席し、私も神崎武法代表とともにお祝いに駆けつけた。徳島県からは圓藤寿穂知事をはじめ大勢の方々が上京し「全国の会長が、わが県から誕生したことはうれしい限りです」と喜びを分かち合っていた。
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